Tokyo、恋ほおずき

秋が頑固な暑さを押し退けて、すとんとやってきた。

小春日和。

 

季節が動き、東京が動く。

数寄屋橋交差点のソニービルが消え、レンゾ・ピアノのガラスキューブが剥き出しになる。

20年来見たことのない東京。

学生の頃眺めたのとは違う形の空。

 

様々な会食が大切な人達と続く。

人形町の松茸すき焼きは、夫との恒例季節イベント。食べれば必ず体重が1キロ増える禁断の食べ物だが、年に一度、この時期だけの楽しみと腹をくくって食べる。

界隈は、変わりゆく銀座とは対照的に、小伝馬町、八丁堀、日本橋など江戸の名残の町名とどこか時代劇映画のセットのような町並みが続く。

しばらく京都に入れ込んでいたが、その日はセピア色の東京を、松茸の香りと共に堪能する。

 

時は遡って江戸時代、老中水野越前守忠邦が子堕ろしを行う女医を取り締まるよう沙汰を出そうとしたその時に、この界隈に江与という中條流(堕胎を専門とする女医)がいたという影を追う。

「恋ほおずき」(諸田玲子/中公文庫)

避妊具など思いもよらない時代、春をひさぐ女達は当然の結果として起こる望まない妊娠を、この中條流を頼って堕胎処置をしてはまた働き続けた。題名は、ほおずきの根が激しい子宮筋収縮を起こすとして、この堕胎に用いられた唯一の、あまりにも乱暴な処置薬だったことからである。

一方、生まれ出ようとする命を無理矢理流す医術はけしからんという理屈のみでこの職を廃止させようとする幕府。中には家臣と手を組んでお局や高位の女性から処置代をむしり取るあくどい中條流もおり、次々と近隣の女医が廃業を迫られる中、遊女や武士からの力ずくの暴力により妊娠を余儀なくされた女性達の最後の蜘蛛の糸として存在し続けようとする江与が、涙さえ流すことを許されず、自身の身の危険を引き受けなければならない女達の味方となって、親しい岡っ引きや長屋の洟垂れ坊主と共に、様々な事件の狭間を奔走する。

婚姻の叶わぬ相手に心を寄せて自らは妻となることを諦めた、凛として聡明な江与の、ミス・マープル並みの賢い事件解明と、つい先だってまで読み込んでいた京ことばとは打って変わった江戸の会話が、読んでいて歯切れがよい。

しかし心をかき乱されて仕方ないのは、つい200年前まで、日本に避妊という常識が無く、堕胎に関してこんな原始的な方法しか持たなかったのかという事実、そしてそのツケは女性が一方的に負わなければならなかったという、あまりにも不均衡な現実である。

避妊法は、いつ、どうやって世に登場したのか。日本に伝わった経緯は。

それを知りたくなって、次の本に読み進む。

「コンドームの歴史」(アーニエ・コリア著/藤田真利子訳/河出書房)

驚くなかれ、すでに古代エジプト時代にはコンドームの原形はあったというから、近代西洋社会が、妊娠の原因を科学的に証明するのに大層な時間を費やしたことを思えば、古代人はかなり妊娠の予防については的をついた考えを持っていたと言える。

では日本への避妊具の伝達はいつか。それがありさえすれば、江戸の遊女達も救われたのではないか。

著者がアメリカ人であるためか多少のジャポニズム傾倒があるとしても少し出来過ぎなのは、日本では八世紀に神官が折り紙のコンドームを作ったという記述だ。実際に実用的な避妊具は、15世紀末に西欧からの梅毒の流行と共にヨーロッパスタイルのコンドームも海を越えてやってきたというのが正解なようだ。

15世紀末というと室町時代。もちろん「恋ほおずき」は著者の創作であり、史実に則っているかどうかはわからない。江戸庶民の隅々にまでは、私が絶望したように、避妊の考えが行き渡っていなかったのだろうか。それともコンドームは病気予防としてもたらされてはいても、男性の圧倒的優位のこの時代に避妊具としてそれを用いる考えが無かったのだろうか。

これはもう私の想像でしかない。

避妊の歴史は一番ストレートな女性の地位向上の歩みでもある。

 

母体保護法の制定が昭和23年。

(ブログを読んだ夫から、昭和23年制定の優生保護法が平成8年に母体保護法と改名されたと指摘有り。「優生保護」という言葉が不適切とみなされたとのこと)

夫達産婦人科医は、身籠った母体が危険に晒されないよう定められたその法律の下に、望まない妊娠も含め措置を行う。

あの時代に江与はまさにこの法律の基を身を張って実行しようとしたのだと、町並みの明かりが彼女の心を照らしているように思えた。

 

飽食に一旦休止符を打ち、お江戸を後にして信州へ。

軽井沢は、燃えるような紅葉だ。

 

 

 

 

 

Kyoto、京都、オトナの修学旅行

行ってみればこんなに美しいのに、どうして京都を人生から遠ざけていたのか、自分でもずっと分からないままであった。

アンノン族(死語)の究極の聖地。そのミーハーなイメージに支配され、手垢にまみれた感を嫌ったか。

金閣(金閣’寺’ではありません、と看板が立ってるらしい)は義満、銀閣は義政、二条城は大政奉還と暗記されられて、長蛇の列の後ろから興味のない建造物を見なければならなかった修学旅行のトラウマか。

「そうだ、京都行こう」に誘われて押し寄せる群衆の一員になりたくないという偏屈極まりないプライドか。

 

10年ぶりに、ただ桂離宮が観たいと云う理由と、夫加療のため数ヶ月大好きな海外に出られなかった穴埋めにふらりと出掛けてみたら、何だか我が邪なハートに京都はズキンと突き刺さってきた。

なぜ?

答えを探して、ありとあらゆる京都関連本を読み漁る。

 

 

川端の二作は、ストーリー云々よりも彼の眼をフィルターにした京都案内のようである。

「古都」(川端康成/新潮文庫) 「美しさと哀しみと」(川端康成/中公文庫)

 

川端の眼を通す京都は、色っぽい。そしてやはり京都人ではないがゆえの彼の憧れが詰まっているように感じられる。「美しい日本の私」を読むと川端の日本文化への造詣の深さが伺えるが、そんな筆者にとって京都は聖地でもあったのだろう。

特に京都そのものを舞台とする「古都」は、遷ろう男女の道行きの背景として存在する、名前だけは聞いたことのある神社仏閣とその界隈が散りばめられて、まるで川端版京都町歩きガイドである。今読むと純愛すぎてストレート過ぎてやや小っ恥ずかしくなりそうな色彩は、「ふたりのロッテ」を彷彿とさせるストーリーを淡く包んでいる。

睡眠薬に溺れて一度は中断を余儀なくされ、のちの自裁に導かれていく時期に著されたとは思えない、澄み切った小説である。

 

 

再び。

なぜこれまで京都から遠ざかっていたのだろうか。

そこにずばっと直球を投げて答えてくれたのが、「京都、オトナの修学旅行」(山下裕二・赤瀬川原平/ちくま文庫)である。

山下、赤瀬川共に執筆当時の2001年、40代中年と60代初老(今の自分と同じ年。初老と呼ばれる年なのか。。。。)。そして文化、美術には一言も二言もあるエキスパートにして、大の皮肉屋。二人の斜め目線の京都評が面白くないわけがない。

当時、今の私とほぼ同い年の赤瀬川がまえがきで言う。

とにかく京都修学旅行は、ぜったいにオトナになってからがお勧めである。

 

なぜなら、

日本人が日本の古典を見るには、西洋人が西洋の古典を振り返るのとは違う難しさがあるのである。これは明治以降、とりわけ大戦後の日本文化の激変の中にいるものとして致し方ない。

いずれにしろ日本美術を見るには、オトナであることが必要だと思う。知識が必要ということではない。物に対する感覚的な経験がどうしても必要なのである。

このまえがきを読んだ途端、「そうですよね?ね?ね?」と、昔住んだマンションの近くにニラハウスという奇妙な住居を構えていたこの前衛芸術家に、途方もない共感を覚えてしまったのである。

中学校の修学旅行で初めて訪れた京都。それは何の感動も私に残さなかった。二条城の真新しさが、ただただ違和感として残ったのを覚えている。

「京都に古いものは何も無い」という本著の一文が突き刺さった。

揶揄半分で、「京都人が云う ’さきの大戦’ とは応仁の乱」というのもあながちウケ狙いではない。度重なる戦いや火事でほとんどの建造物が消失し再建されて、今の観光都市京都がある。放火により消失した金閣などはほんの数十年前の建造物である。紙と木で出来た碁盤の目の平面の都は、常に火事と闘ってきたのだ。なのに、教科書の日本史と絡めて修学旅行を実施するから、我々は(・・というか私だけなのかも知れないけれども)混乱する。尊氏が、家康が目の前にある物を精魂込めて建立したと。

狩野派はゼネコンである、というような破天荒な視点と共に、全くの素人に京都とはなんたるかを”非”京都愛好家として、でも愛情を持って語ってくれた初めてのベクトルではないか。(最近では井上氏の「京都ぎらい」がベストセラーを獲得しているけれども)

京都は嫌いでいいのだ。

でも何か心に触れるトシになったら、そうだ、京都行こう。

そんなことを思わせてくれる一冊だった。

 

 

 

今回訪れた京都では京都通の友人を介し、パリのようなアンティークショップや洗練された食にも出会うことが出来た。京都の食文化の美しさには目を見張るばかりである。

修学旅行生とは別世界の京都が絶対ある。

 

さあ、還暦過ぎてからのディスカヴァー・ジャパン。

迷走必至である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Katsura-rikyu、陰翳礼讃

気が付いたら京都に来ていた。

 

読書会の今月のテーマの「美しい日本の私」から谷崎の「陰翳礼讃」に流れて、無性にこの古都に向かいたくなった。

「陰翳礼讃」(谷崎潤一郎/中公文庫)

両親が住んだ家と土地の始末が叶い、最後に取り壊される古家の父の本棚から持ち出した数冊の中に、角が擦り切れた桂離宮の写真集があった。父が、あるいは母が、どんなに熱心にこの写真集を眺めたのだろうと、愛おしかった。

夏の終わりがけ、自分の現役引退を目前にして、この日本で一番美しいウィークエンドハウスを初めて観に行くことにした。

 

京都は何十年か前の修学旅行以来、職員旅行や夫の学会同行などでお仕着せの道行きはあったけれど、大勢の観光客にまみれるばかりで、ついぞ熱心な興味を引かれることは無かった。しかし今回、初めて自分の手と足で情報収集して歩き回れば、そこはかとなくパリに似た繊細な文化を醸し出す町の表情の虜になる。

たまに無粋なコンクリートビルに邪魔されはしても、町自体がうっすらとアンティークなヴェールに覆われているのが単純に美しいし、方向性が完全に一致して成り立っているところが、私のような無学の者でも、初めて来た外国人にでも分かりやすいのだろうと思う。

建物の高さが制限されて、鴨川原を中心にして町の中心地の空が広く開けているのも呼吸を平らかにさせ、セーヌ川を抱くパリを思わせる。

 

 

急に思い立ったのでインターネット予約が間に合わず、事情を察した京都在住の友人が御所まで出向いて取ってくれたある意味プラチナチケット(無料)で拝観した桂離宮は、まさに「陰翳礼讃」のワンフレーズ、ワンフレーズの視覚化であった。

ドイツの建築家ブルーノ・タウトをして、「泣きたくなるほど美しい」と嘆賞させたこの元八条宮家の山荘は、市の西郊、桂川畔にある。豊臣秀吉の養子に迎えられたため(後に秀吉に実子が生まれたため解消)徳川家の忌避に遭い、歴史の表舞台に立つことなく数奇な生涯を終えた八条宮家智仁親王が、古典文学への研鑽を積んだ当代屈指の文化人としての美意識と教養を駆使して作り上げた別荘で、邸内に3つの端正な書院と4つの美しい茶屋を有する。

邸内だけでも約6万平方メートルという敷地の中に、これらの瀟洒な建造物が絶妙な視覚的センスを持って配置されているのを見るだけで感動するが、さらに眼を奪われるのは、建物、庭園を織りなす一つ一つのディティールの、比類の無い凝りようである。

 

この市松模様、リズミカルでなんとモダンなことか。

 

 

 

左様にわれわれが住居を営むには、何よりも屋根と云う傘を拡げて大地に一郭の日かげを落とし、その薄暗い陰翳の中に家造りをする。

 

 

 

そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。

 

 

 

われわれは、この力のない、わびしい、果敢ない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。

 

 

 

 

もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。

 

 

 

谷崎は、白々とした西洋を真似た光線が日本の文化の中に入り込んだ醜さを徹底して嫌っている。

日本の文化の中に常に存在している影というものは、それが暗い部屋に住むことを余儀なくされた歴史的生活環境から生まれたものだとしても、われわれの祖先はいつしか陰翳の中に美を発見し、やがては美の目的のために陰翳を利用するようになったのだという谷崎の眼は、普段本格的な日本家屋など見る機会の少なくなった現代では、この桂離宮を見ると心に染み入るようである。

その陰翳の文化の源流を、日本人独特の肌の色や屋敷のディティールに反映させて解釈した本著は、建築を目指す者のみならず、谷崎をして”間違った方向に進化してしまった文明”をもてはやし、結果、混沌とし、雑然とした風景を作り出してしまったわれわれ現代人全てが、もう一度二度手に取るべき名著だと思う。

 

 

大学生の頃訳も分からず読み捨てていた本著を、恥ずかしながら、今さらながら、京都行きを前に読み直し、その本質に僅かながら触れることが出来たことを幸せに思う。

外国にばかり眼を向けて飛び出していたこれまでを後悔はしないが、日本の文化への理解無くしてする危うさと浅はかさ。自分の足元にそれがあるし、高度成長を急ぐあまり日本古来の美しさへの尊敬を置き忘れた現代社会にも残念さは残る。

 

早くから文人達が危惧してきた日本の美の喪失を、遅ればせながら一つ一つ拾い上げていきたいと思うようになったのは、やはり歳をとったということだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Mito、青い眼がほしい

石名坂の上から、なだらかに海に向かって斜めに下りる細い道をゆるゆる下る時に、ふいに実家を見ても湧かなかった熱いものがせり上がってきたのは自分でも意外だった。

 

 

二人が施設に入居してから約10年間、空き家になっていた両親の家を遂に手放すことになり、その手続きのために故郷を訪れた時、ふと空いた時間に訪れようと思いたったのは、父が人生の大半を捧げたミッションスクールだった。

母が厳密に勤務体制が定められた公立高校の教師だったのに対し、父がいたミッションスクールは新しく自由な雰囲気で、働く女性のための保育体制が整わなかったその時代に母が不在となる時は、父はまだろくに歩けもしない頃から私を学校に連れて行き、自分のデスクの脇で遊ばせたり、宣教師達の家に預けたり、時にはがらんとした図書館に野放しにしたりした。

隣のゴルフ場と地続きの用地は、松林と広大な芝生が美しい緩やかな海側へのダウンヒルで、父の居る木造の事務棟から宣教師達のフィフティーズ住宅まで、幼すぎる私の足では、歩いても歩いても到着しなかった。疲れて途中の芝生に寝転がれば、頬の脇にタンポポが揺れていた。連れられてご飯を食べた学食は、米軍払い下げのかまぼこ兵舎だった。

 

考えてみたら小学校入学から高校卒業までたった12年しか住まなかった実家より、私は父に連れられてずいぶん長い間この学校に通ったのだ。その思い出の量が、手放す実家への思いを超えていたということなんだろう。

生徒数が増え規模が大きくなるにつれて、父はひとつひとつ注意深くこだわりを持って校舎を建設してきたが、その学校も今は、統一感の無い沢山の建物が葬り去られた芝生の代わりに節操無く立ち並んでいる。父の志はもう何処にも無い。

父が学校を去って35年。

それでも私はそこに父を見たような気がした。

 

 

父が一緒に仕事をしてきたアメリカの宣教師達は、どこからどうやって日本に、しかもこの茨城の片田舎にやってきたのか、その経緯を私は知らない。

この地に彼らが小さな学校を創立したのは1948年のことだ。

その7年前の1941年、ピコーラは自分の父親の子どもを宿し、その年、オハイオでマリゴールドの花は開かなかった。

「青い眼がほしい」(トニ・モリスン/大社淑子訳/早川書房)

 

アフリカン・アメリカン女性初のノーベル賞作家、トニ・モリスンのデビュー作。

アメリカの黒人作家の文学と聞いて先ず思い浮かぶ激しい抵抗の情熱とは裏腹に、読むうちに満ちてくるのは静かでどうしようもないやるせなさである。

貧困、無教養。暴力、犯罪、近親相姦、異常性愛。

何が原因で何が結果なのか、それすらも分からない掃き溜めのようなカオスの中の同胞のスパイラルを、著者は美しい言い回しで一皮、一皮剥がして露にしていく。単一民族国家のアジア人には最も感覚が鈍る部分、そのスパイラルの中に一度でも身を置いたことが無ければ描けない感覚だ。

その暗闇を、なぜ、と考えた時に、もし、こういう生まれでなかったら、という仮定に説明させるために、ストーリーと登場人物の生い立ちが交互に語られていく。そのため、筋書きは追いにくい。しかもそこに答えは出ない。もしこういう生い立ちでなければ、こういう親を持たなかったら、こういう環境を抜けだせていたなら、という仮定は何の役にも立たない。なぜなら、白人社会が正当だと思っている価値観は、彼らにとって望むべくも無いものだから。

彼らが切に望むのは、外見の醜さを消すことである。彼らは自分たちは醜いというどうしようもない劣等感をもって、自らを白人社会から疎外しているのだという著者の視点は、ひりひりとした出口の無い痛みを誘う。

友達から攻撃され、母親から見捨てられ、父親には陵辱されるピコーラが望むものは、たったひとつ、青い美しい眼がほしいということだけ。彼女が人として生きる価値判断を養う土壌の脆弱さがもの悲しい。

この子に、何を言ってやれるのだろう。

読み終わった後には、ただ重い無力感が残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Karuizawa、新薬の狩人たち

慣れない静養生活を数週間軽井沢で送って、夫は二度目のメスを身体に入れるために入院生活に戻った。

軽井沢で、夫と毎日10キロ近く散歩するカントは、急にいなくなったハンドラーに起こっていることを敏感に察知しているようにも思える。

酷暑が続いたこの夏、エアコンの無い生活が出来る森の中の家は千客万来で楽しかったが、私たちは厳しい現実に向き合うために里へ下りた。

 

 

消去法的必然文系人間は滅多に科学系本に手を出さないのだが、軽井沢滞在中にえいやっと読んでみた薬理の世界は、文学を超えるかも知れないロマンに満ち満ちていて、すっかり夢中になってしまった。

「新薬の狩人たち 〜成功率0.1%の探求〜」(ドナルド・R・キルシュ/オギ・オーガス/寺町朋子訳/早川書房)

新薬ビジネスはとりわけ巨額マネーばかりが取沙汰されるが、その製薬会社が喉から手が出るほど欲しい製薬のセオリーと技術は、多くはほとんど偶然に近いような確率でしか生まれないし、時には本当に偶然であったりする。そしてそれを突き止める研究者たちは、多くは金にはたいして興味の無い偏屈な化学オタクだったりする。

例えば歴史上最も売れてきたバイエル社のブランド薬アスピリンは、それまで何百年もの間、それこそ漢方やアロマテラピーのような科学的根拠が明確でない自然発生的成分で症状の緩和に寄与してきた古代薬理の世界に、1830年代に誕生した合成化学によって人間が”設計”した画期的な特効薬として華々しく登場した。近代薬理の発進である。

そのアスピリンが、開発に出資したバイエル社の巧妙な仕掛けによって、特許が切れた現代でも売れ続けるベストセラー薬に仕立てられていること、発明に最も寄与した化学者がナチスへの忖度によって浮かび上がれなかったことなど、アスピリン一つをとっても、まるで映画のようなドラマの枚挙に事欠かない。

こうして既存の自然発生薬の合成をいじりながら麻酔薬や症状緩和薬がまず登場した後、世界初の”治療薬”が誕生することになる。

サルバルサンは、製薬業界より合成化学という面では一歩先を走っていた染料の成分が、特定の”受容体”にのみ反応して発色するという仕組みに着目したドイツ人科学者エールリヒが、スピロヘータ科梅毒菌のみに着弾し破壊するヒ素の”弾頭付き”染料を開発、これが薬の歴史上だけではなく、まさに人類の歴史上でも特別な瞬間となった。このあたりは、もうスパイ映画のくだりのようである。

その後、製薬界はこの合成化学時代を経てバイオ医薬品時代に突入し、ある意味自由に成分を生み出し、組み合わせて薬剤を作れるようになったが、それは常に副作用というお荷物や危険、ビジネスを巡る金、または人体の謎などとの闘いをも生み出した。現代製薬界の最も大きな問題は耐性菌の出現であろう。

創薬の難しさ、サブタイトルの0.1%は、ドラッグハンターが提案した創薬プロジェクトのうち経営陣から資金を提供される確率が5%、その中で新薬発売に漕ぎ着けるのは2%という事実由来の数値である。

それでも果敢な挑戦を続けてきた古今の非凡な新薬の狩人、ドラッグハンターがいたからこそ、今我々はその恩恵を受け、命を救われたり苦痛を和らげられたりしている。

本著は出来るだけ専門的、難解な語彙を避け、流暢な抑揚を込めた文章で淀みなく綴られており、自分のような科学と化学の区別も満足に出来ない文系人間にも、製薬の歴史の壮絶、壮大なスペクタクルを分かりやすく読ませてくれる。

折しも夫が二回も(!)続けて手術を受けるという現場に居合わせる時期と重なったため、集中治療室で術後の痛みに耐える夫の身体に吸い込まれていく点滴やトレイに並べられた注射の数々、配布される錠剤などをまじまじと見てしまった。

手術がこの現代の最新医療の中であってよかったと夫には言いたいし(医者本人に言っても馬耳東風だろう)、術後順調に彼が回復に向かっていることを報告して、簡単に製薬ヒストリーのレビューを終えよう。

 

 

 

 

 

Karuizawa、アンナ・カレーニナ

夫の退院とともに、連日40℃近い灼熱地獄の関東から山を越えて、山荘に避難してきた。

 

温暖化とはいえ、都会の今年の暑さは狂気だ。

24時間エアコン漬けのなんともけだるい街の生活に、しばし別れを告げる。

 

 

昔は滅多に30℃を超える日が無かった軽井沢も、最近は31、2℃の日が珍しくなくなった。それでも森の中は緑の風が渡り、体感的にかなり低いように思う。

 

 

 

山荘にあるのは、涼風と有り余る時間だ。

本格的な避暑・観光シーズンを前にして、平日の町中は人気が無い。都会から移り住むに当っては、まずこのまばらな人口密度に慣れていかなくてはならない。

何十年も住んできた場所とは全く違った、新しいソサエティに分け入っていく覚悟も必要だ。来年から始まるリタイア生活の予習のようなものだが、夫はまだそこを持て余している。

ここでどう生きていくのか。

幸いこの町にはその先達が大勢いる。

現役時代に東京で活躍した多くの文化人がリタイアして住まい、町創立の歴史から欧米居住者も多い軽井沢は、一地方の町としてはかなり特別な雰囲気を持つ町だと思う。

望めば東京並みの食事も叶うし、特にジャズなどはクオリティの高いアマチュアセッションにあちこちで出会える。

 

そんな中に少しずつ稼働領域を広げ中。

 

 

森の中では圧倒的に本を読んで過ごす時間が多い。

 

 

文庫本3冊に渡る壮大なロシア文学の読了に取りかかる。

アンナの生き方を否定しない。

帝政ロシア、その知の巨人の視線の角度。

「アンナ・カレーニナ」(トルストイ/木村浩訳/新潮文庫)

 

ストーリーは、トルストイの出自そのものの19世紀ロシアの貴族社会を背景に、美貌の人妻アンナと、農場経営と教育に情熱を傾ける伯爵リョーヴィンの全く対照的な二つの結婚生活を、縦横に巡らした貴族間の婚姻関係で自然に関連づけて展開していく。

何一つ不自由の無い婚姻をしながらも、自己の愛に忠実であろうとするが故に破滅していくアンナに、人生の教師として思想界に名高いトルストイは己の理想の女性像を与え、その生き方に批判の目を投影していないように見える。しかし道を誤った女を罰するのは、社会や夫ではなく、苦しみ、後に非業の死に至る人生を背負わせる大きな存在であろうという、宗教に基づく彼なりの解釈もまた成り立つように思う。

一方、広大な農地を所有し、都会の上流社会とは距離をおいて自己の理想郷を確立しようと努力するリョーヴィンは、まぎれも無くトルストイ自身の化身であり、彼の口を借り、現代文明への鋭い批判と指南を本著において表明している点で、この小説がありきたりのロマン小説ではなく、社会的なステイタスを持った重々しい名作として世に評価されることとなったと理解する。

 

 

世に言う名作は、絶えず私たちの目に触れるところにありながら、そして若い時に読むべきだと言われながら、私の場合はいつも目先の新しい、その時の興味の赴くままの選書になってしまい、特に読破に時間のかかる長編は迂回してしまいがちだったことを反省している。

社会の第一線を退いた後に横たわる長い時間は、今までと違う生き方を模索する時間であると共に、こういった読み残してきた大作を一つ一つ味わっていく、熟成の期間でもあると思う。

今、その時が来たことを幸せに思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Moroyama、@ガン病棟

孫娘の初めてのピアノ発表会を夫と楽しんでの帰り道は、ロンドンでよく見た輝く薔薇色の空であった。

その色を愛おしげに脳裏にインプットして、夫は最初の軟骨肉腫切除手術のために、埼玉の奥地にある国際医療センターに入院した。

今、日本全土を覆う殺人的な猛暑のちょうど始まりの日、西日本を豪雨が襲ったその日だったように思う。

医療センターのメインエントランスは真西に大きな開口部を設け、影が全く無いだだっ広いアプローチは堪え難い西日を直接照り返させ、それが弱った患者や心痛を抱えた見舞客の気力と体力を奪った。

それぞれに皆忙しい家族故、入院も手術も一人で立ち会うつもりでいたが、ベトナム在住の次男が仕事の予定を合わせて帰国し、両日付き添ってくれた。

院内のスターバックスに設けられた七夕飾りは、健康な人々の毎日がどんなに贅沢なことかを言外に語る、独特の小さく光る星々であった。

 

 

今回夫のがんを知った人達の多くが、もう来年は私が未亡人になるかのような視線を投げかけるのであったが、それはそれで置いておくことにした。実際に患者を家族に抱えた身には、エモーショナルな同情はただ気が重く、実際に一つずつの検査や治療を粛々と進めていく無機質な前進だけが、出口の光に向かう唯一の手段であることは明白だった。

 

 

自覚症状も無いままに、まさに偶然のように発見された初期の腫瘍で転移が認められず、術後の放射線治療も可能性は低いとのことだったので、2週間に渡る夫の入院生活は、皆さんの心配を他所に、本が20冊くらい読めるいい休暇みたいだった。(しかし彼は一冊も読まなかった)

私も食事をバンバン差し入れたので、病院の食事もそれほど堪えなかったようだ。

 

いつもクリニックで夫の身体をケアしてくれるアロマセラピストが出張して足浴と角質除去をしてくれ、これはもうスパ付き休養という贅沢さであった。

 

最初は毎日家族親族に様子を伝える必要で始めた定点観測も、日々の回復度合いが見てとれるものとなった。

 

 

退院の日。

 

日本人の二人に一人はがんだという時代である。

医療と技術が発達し、医学で治らない病気が少なくなり、でもがんはそこに最後に残っている。

子どもや若い人のがんは辛い。

しかし夫自身も常日頃言っているように、私たちの世代のがんがほぼ細胞の老化であることを考えると、少し早いか遅いかの差はあるにせよ、それは自然の病態として静かに受け入れたい。社会の責任を果たし終えた後の第二の自由な人生の中にあるがんは、誰にも迷惑をかけない。今回夫は早い段階の発見だったので切除に踏み切ったが、責任を果たし終えた後に、幾分か長く生きることはそれほど必要なことだろうかと思う。

私は55才から一切のがん検診を受けていない。

生き長らえることに執着しなくなると、がんの受け止め方も自ずから変わってくるものだ。

 

ガン病棟は、明るく静かで祈りに満ちている。

夫に付き添い、何度も何度もここに通いながら、私はがんになった片方を労りながら沢山の老夫婦が寄り添う姿を見た。

そこには長い人生を一緒に生き、ここでがんという不幸に見舞われはしたが、夫婦二人の歴史の中で静かにその出来事を咀嚼している穏やかな強さがあり、見ていてなぜかほっとした。

 

夫は来月、また検査の過程で偶然見つかった腎細胞癌の切除手術に臨む。

ちょうど長男に医療法人を移譲する手続きを進める中での今回の発病は、自分が主役であった人生の隆盛期に別れを告げる、一つのステップなのだと考えたい。

発病、その後の入院にあたり、ご尽力、ご心配頂きました皆様に、心からお礼申し上げます。

もう少し治療は続きますが、入院中も院内を毎日1万歩歩いて(別な病棟に入れられるかと心配した)体力増強に努めた本人が何より非常に前向きに取り組んでいるので、どうぞご安心ください。

きっと彼は完治させるだろうと確信しています。

 

 

 

 

 

 

 

Matsuyama、安藤建築を訪ねて

人生62年で初めての四国上陸である。

あんなに海外飛び回っているのに、国内に関しては驚くほどモノを知らないねとよく言われる。

新幹線の乗り方もアヤシかったし、都道府県の位置もすこぶるアヤシかった。特に電圧の変わるポイントから以西は、つまり近畿から向こう(その関東目線がけしからんと関西の人には言われる)に関しては、大阪と京都・奈良(=修学旅行)以外行ったことが無く、無知そのものであった。『沈黙』の読書感想文県知事賞記念に、高校卒業時に父が伴ってくれた長崎が九州では唯一の私のフットプリント、ましてや四国と来ればどんなに探しても繋ぐ糸が見つからず、遠い異文化の地、教科書で習ったうどんと塩田と鰹しか知恵を振り絞っても浮かんでこない場所だった。

自分の生まれ育った国に対する無知の前の異国への憧憬は、なんと危ういものだろう。ロンドンに暮らした後に余計それを思うようになった。

日本の美しさを著した著書を貪るように読む日々である。

 

そんな私にとって西への一番身近な足がかりは、若い頃大変衝撃を受けた建築家の活躍の場だということだ。本当は直島に行きたかったけど、ベネッセハウスはもう半年先まで予約いっぱい。着地したのは愛媛、松山である。

 

もと◯王製紙創業者の私設ミュージアム&ゲストハウスだったという安藤忠雄デザインは、松山市内から車で30分ほど走った小高い丘の上に開けた同企業のナンバーワン製紙プロダクツ、◯リエールの名を冠した有名ゴルフ場に隣接している。竣工以来20年創業者一家の成功を具現化したリトリートとしての役割を果たしてきたが、2年前別法人に移譲され、施設は新しくホテルとしてのスタート切ったという。

期待に違わぬコンクリート打ち放しの妙。

 

安藤忠雄。

それまで構造の素材でしかなかった鉄筋入りコンクリートをそのまま剥き出しにして、内外壁面のマテリアルとして表現してみせたこの視線にとことん惚れた一時期が私にはあった。建築誌で見た、同じ建築家の城戸崎氏私邸が指針であったと思う。

ちょうどこのホテルが竣工するのとほぼ同時期に自宅を建てることになり、こちらはご本尊にデザインを依頼するつても経済力も無かったが、打ち放しを勉強している建築デザイナーに巡り会って、迷わず自分の家はこの素材を選んだ。

実際に住んでみると、壁紙はおろか断熱材を挟み込めない壁構造は、コンクリート特有の蓄冷熱効果により、夏異常に暑く冬は我慢ならないほど寒かった。それは初期の安藤建築の自邸に住む◯シノヒロコ他多数のクライアントが吐露するところだ。

 

それでもコンクリート打ち放しの壁に魅入られたのは、一言で言えば、嘘の無い潔さだった。

壁紙や彩色によって壁の素材や構造を覆い隠せない分、コンクリートの質と配筋量と打設技術がすべて。拙宅の打設には建築家自ら武装して職人と共にコンクリートを打つのを、私も現場で見守ったものだ。

 

毎日コンクリートの箱の中で暮らすのは味気ないと人は考えるかも知れない。

しかしその自然のつやと量感は伸びやかで力強く、柱の出っ張りの無い大空間は鷹揚で、30センチ超の厚みは東関東大震災にもびくともせず、その無機質さは中に配置する絵や家具を一際引き立たせてくれた。5m近い天井高と堅固で密なるコンクリートは、中で奏でられる音をしっかりと受け止め反響させた。

一時大変人気のあったこの工法も、劣化したコンクリートの処理や始末の問題で、近年は一時ほどの隆盛を見ない。

それでも毎年この時期に咲き誇る白いアナベルをゴージャスなウェディングドレスのように纏って美しいこの無機質な屹立が、私は気に入っていた。

 

そこにやはり20年住み、来年の息子への医療法人移譲とともに、我々夫婦は近い将来この家を去る。

愛してこだわった住処をあとにする日はどんな人にもいつかはやってくるのだと、比べ物にならない小さな自宅ではあるが今の自分を鑑み、このホテルの由来を聞いた時に私の胸には響くものがあったのは事実だ。

 

 

 

ホテルのダイニングで供されるのは、関東人には珍しいばかりの四国の食材をふんだんに使った洗練の極み。

もともとプライベートな滞在を目的に建設された建物なので、商業的なアクセスの便利さは考えられていない。そのため食事は必然的に施設内でしか摂れない。その不自由さを補って十分な質だったと思う。

 

 

この私の「今さら日本みてある記」の一歩を踏み出すその3日前、夫に軟骨肉腫という非常に珍しい骨のがんが見つかった。その検査過程でさらに左腎細胞の病巣も露見した。

検査に次ぐ検査の日程と本人の胸中を思い旅行を取り止めることを考えたが、検査の日程に合わせ、事前了承の規定により返金が叶わないこのホテルだけ日程を短縮して二泊だけ出掛けることにした。ホテルがその中でできるだけの配慮をしてくれたのがありがたかった。

 

 

瀬戸内の無数の小島を臨むプールの、穏やかであまりにも美しい夕暮れ。

 

黄昏という言葉が、このホテルの歴史や自分の人生と綯い交ぜになり、脳裏に浮かんでは消える。

それは峠を越えて坂を降り始める哀愁であり、どこか肩の荷を降ろす時の心地良い脱力の気持ちでもある。

馴染みの無かった場所で開業した夫と共に突っ走ってきた20年は、長いようであっという間だった。夫は苦労させたと言うけれど、前進するモチベーションに後押しされて全てが新鮮で楽しかった。

息子達が独立し、両親を送り、迎えた還暦を期に私は夫から一年の休暇を貰い、ロンドンで人生初の一人暮らしを体験した。人生でこんなに楽しい日々があるのかという夢のような時間のその二年先に夫から長男への法人のパスダウンを見据えて、夫婦の第二の人生計画を立て始めたその時に、空から癌が降ってきた。

 

 

人生はどの人生も一つのストーリーである。

個々の人生は多分ニーチェの永劫回帰思想から言えば、始めから決まっていた大構造の中の小さな一つのパーツに過ぎない。それが哲学におけるひとつのソース、日常の些末な出来事は、全てを見渡せる大きな長いスパンの視線を獲得した時に救われると感じる。私達夫婦の今日もまたその一コマにしか過ぎない。

 

 

 

ただ心穏やか。

長年母子の命に向き合い、尽くしてきた夫の休養に、今は寄り添いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Karuizawa、ウマし

さて、父親がアフリカに派遣中で、持て余し気味の孫達のエネルギー放出の手伝いである。

「暴れます」

軽井沢駅に降り立ったミニ軍隊、のっけから不穏な空気である。

 

彼らの恰好の標的となったのは、服従という言葉を知らない3才カントである。

吠えようとも逃げ回ろうとも捕獲され、撫で回され抱きしめられの刑に会う。

老いて達観、無抵抗主義のメグは、比較的自由を勝ち取っている。

 

 

山荘はまるで戦車が通り過ぎた後のようである。

破壊衝動。

 

竜巻連隊通過後、山荘には疲れという名の静寂が下りる。

むにゃ・・・・

 

 

 

このロックな週末は例外として、東京のように出掛ける理由がそこここにあるわけではない軽井沢では、時間は都会の1/3くらいの速度で流れていく。

新しく出来た本屋まで、二つの森を抜けて歩いていく。

軽井沢にも簡便な規模ながらブックカフェという概念が滑り込んできたようだ。

インターネットで全て手に入る時代、本離れ、本屋離れが進む日本でかろうじて抵抗の狼煙を上げたのが、「魅せて飲める」本屋、つまり今まで背表紙しか見せてこなかった陳列を崩したディスプレイ、ショップやカフェを併設して本を楽しむ空間を擁した本屋である。日本では数年前、代官山にT書店が先陣を切ったあと、似たようなスタイルの本屋がぽつぽつ登場し出した。

そんな時期にロンドンへ飛び出して、一番感心したのは、彼の地のブックショップのステイタスとその佇まいであった。ロンドンからの報告にも何度か書いたが、何百年も続くブックショップは本を買わない客にさえも鷹揚、そこにいるだけで大好きな本の頁の中に自分が入り込んでいるような重厚で美しい雰囲気を無料で提供してくれた。なかなか英語で読める本が少なく、目当ての本があるわけでもないのに、通りを歩くのに疲れた異邦人は道すがら好きなブックショップに立ち寄って寛ぎ、書籍と本読みの匂いに酔いしれたものだ。

英国ではブックショップを通して、本がある生活がまだまだ本能に近いところにあると感じたし、日本の書店の味気ない雰囲気と衰退がまた残念に感じられた。

 

 

多少なりとも魅せる本屋の流行を追った軽井沢の新しい書店で、料理エッセイ3冊と廃墟の写真集を買う。

「不法侵入 ー朽ち果てた廃墟の世界ー」(アンドレ・ゴヴィア/グラフィック社)は、以前Amazonで買おうとしたが、写真集はさすがによほど評価が確定しているものか贔屓の写真家のものでない限りネット買いは憚られ、買えずじまいだったものだ。店頭で頁を繰るうちにぐんぐん自分がそのオーラに引き寄せられるのを感じ、即買いする。

意図せず、帰り道の森の中で、打ち捨てられて廃墟と化した大きな料亭がまさに森に飲み込まれんとしているのを見る。

大蛇のようにうねった藤蔓が、今にも元の藤棚を押し潰さんばかりに獰猛に無法に生育しているのに、目が釘付けになる。

廃墟が写真家や我々を引き寄せるのは、かつてそこに存在した人間の息づかいを感じるというよりも、人工物が命を終えた後に自然に飲み込まれて土に帰ろうとするその永い永い時間を感じるからだと思う。

背中がぞわっとするような感覚が立ち上る写真集だ。

 

 

いつから料理をしなくなったのだろう。

息子達が大学入学と同時に家を出て、小鳥に給餌する必然性が無くなった時期に重なって夫の医院開業のマネジメントを引き受けるようになり、専業主婦を廃業した、ちょうどその頃だったと思う。

学生の頃からコルドンブルー出身のおばあちゃまに手習い、料理はとても好きだったのに、それはあっさりと私の手を離れてしまった。

夫より帰宅が遅い日もあり、外食ばかりではと、食事を作るお手伝いを人に頼むようになり、一旦人に任せた台所は、我が家にはあったが私のものではなくなった。人の使った台所は急速に料理への意欲を失わせた。

そして再びロンドン回想。

住んでいた部屋の簡単なキチネットで、一人分の食事を作ることが楽しくて仕方がなかった。馴染みの日本の料理を出来るだけ近い食材を見つけて作ったり、食材を市場で買って手早く調理してクイッとワインと一緒に喉に流し込んだり・・自分だけが美味しいと思えるために料理をする、自分の舌の感覚だけを頼りに調理するってサイコーだ。それを面白いと感じて度々キッチンに立った。

時間が単純に無かったことから疎遠になっていた料理だから、軽井沢でたっぷりある時間は、読書とまず料理に当てることから使い始めることになった。

子どもの頃母に言いつけられて嫌々やっていた鰹節掻きやもやしのひげ根とりは、丁寧に料理する過程として今は楽しいと思える。

久しぶりにやはり何か料理のヒントが欲しくて、料理エッセイに手が伸びる。

料理本ではなく、料理エッセイ。作り方そのものよりも、行間から料理とは何かを感じとりたいと思う。

そうそう。

母が結婚する時に持たせてくれた料理本は、当時は皆そうだったのだろうが、きっかりと、材料、分量と箇条書きの手順が羅列してあるだけの、まさに教科書のようなもので、全20巻もある装丁本だったことを考えると一種の嫁入り道具だったのか。誰が作っても同じに完成品ができる、ある意味優れものではあった。

 

そしていつからだろう。

職業的な調理人ではなく主婦の延長のような「わたしらしい料理」を打ち出す料理家という呼び名が流行り出したのは。私の記憶では◯原はるみさんや、◯野レミさん辺りからだったような気がする。

料理は重い豪華装丁本から学ぶ作り方ではなく、家庭から発信するちょっと上級の個性を学ぶ方向に変わったのだ。

「ウマし」(伊藤比呂美/中央公論新社)

「良いおっぱい、悪いおっぱい」などの著書や詩集で女の生を独特の表現で著して世を刺激し続けた作家の食に対するエッセイは、これまでの彼女の著書同様生々しく本能的で、他に類を見ない比喩表現が突出する。

食べる、ではなく、食う。

親子丼はドナドナ。

きのこは人肉の記憶・・・

 

 

食うということはセックスと同様、本来の人間としての感覚を駆使した原始的な欲求行為、本能と五感と記憶に密接に結びつく。そんなことを「あたし」はそのかなり捌けた文章でストレート裏漉ししてみせる。

カリフォルニアと熊本を行き来しながらの生活故、日本の食を懐古的に俯瞰したような視線も独特だ。

 

 

山荘のキッチンを手懐ける時間。

今はそれを楽しむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Brno、存在の耐えられない軽さ

去年ロンドンで、母の日にシャンパン携えてお世話になっていたおばあちゃんのお家を訪ねたら、あら、イギリスでは3月に終わったわよと言われた。

全世界共通ではないのね、母の日。

ベトナムとナイジェリアにいる息子達がし〜〜んとしているのはそのせいと理解しよう。代わりにお嫁さんと孫達が来てくれる。

義母に花を贈るまだ娘でもあり、かつて母親としてはあまりにも未熟すぎたけど、今、周りにわいわいとこの日を盛り上げてくれる若い輩がいるのは楽しい限り。

小学生だった次男が学校帰りに小遣いでカーネーションを買おうとしたのに、「50円足りないって言われた」としょんぼり帰ってきたのも、きゅんきゅんする思い出だ。

カーネーションは無かったけど、心にぽっと花が咲いた。

 

その次男は今は建築家としてベトナムで開業している。

 

 

 

彼と、ミース・ファン・デル・ローエのトゥーゲントハット邸を観に、チェコのブルノを旅したことがある。

ウィーンでニューイヤーコンサートを聴いた翌日だったと思う。

クンデラの故郷は、モノクロで音の無い美しい町。

小高い丘に建てられたモダンの機能美はおどろきの1930年竣工。

プラハの春を眺め、ソ連のチェコ侵攻を耐え抜いた家である。

 

 

 

「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ/千野栄一訳/集英社文庫)を読む。

 

プラハの春に見えた自由への希望を、僅か4ヶ月後のワルシャワ条約機構軍プラハ侵攻で大きく打ち砕かれ、共産主義の言論統制下に翻弄される恋人達の生き様を描く。

200人と寝たというドンファン外科医トマーシュと、彼と生活を共にし、嫉妬に苦悩する田舎娘テレザの周囲を、スターリン、ブレジネフのキッチュ(俗悪なもの、と訳されている)が歪めていく。

哲学的で女好きなブラックジャックは、最後の最後で連れ添うテレザの回想によって本質の全容を明らかにされ、本著を究極の恋愛小説に押し上げる。そのストラクチャーがあまりに巧みである。

その心模様と人間関係を哲学的な第三者の目で語っていく著者ミラン・クンデラ、ブルノ生まれ。1968年4月に起こった民主化運動「プラハの春」を文化面から支えるも、僅か4ヶ月後の8月のソヴィエト軍プラハ侵攻により発足した傀儡政権下で、チェコ国籍剥奪、著作全篇国内出版停止。フランスへ亡命。1981年フランス国籍取得、1984年「存在の耐えられない軽さ」仏訳で初出版。1989年ビロード革命後、クンデラ5著作がチェコ国内出版解禁。

人生のドラマを重さというメタファーで表す思想的な記述もさることながら、惚れ惚れするのはクンデラの言語的なセンスである。特に意表を突く洗練されたメタファーと、まるで現代のキャッチコピーのような鋭い二語対比(「前景は分かりやすい嘘、背景は分かりにくい真実」、「悲しみは形態であり、幸福は内容である」など)は刹那的な才能が光り、久しぶりに傾倒出来る作家に出会った喜びを噛みしめる。

読書術には一工夫要る、所謂一筋縄ではいかない本の一つだろうが、ストーリーを読むというよりは彼のセンスと思想構造を読む、そんな一冊だ。

 

 

日曜、涼しく乾いた風が家の中を吹き抜けていく。

近年数えるくらいしか無い、爽やかな一日。

夫がゴルフに出掛けた後、洗濯と掃除をやっつけて、あとは日がな犬達とゴロゴロしながら好きな本をあちらこちらとブックサーフィン。

こんな日がいい。

 

トマーシュの元へやってきた時にこの本を携え、安寧を見いだす小さな存在の飼い犬にカレーニンという名を付けるテレザの皮肉な小道具、「アンナ・カレーニナ」が、次の課題本だ。