Brno、存在の耐えられない軽さ

去年ロンドンで、母の日にシャンパン携えてお世話になっていたおばあちゃんのお家を訪ねたら、あら、イギリスでは3月に終わったわよと言われた。

全世界共通ではないのね、母の日。

ベトナムとナイジェリアにいる息子達がし〜〜んとしているのはそのせいと理解しよう。代わりにお嫁さんと孫達が来てくれる。

義母に花を贈るまだ娘でもあり、かつて母親としてはあまりにも未熟すぎたけど、今、周りにわいわいとこの日を盛り上げてくれる若い輩がいるのは楽しい限り。

小学生だった次男が学校帰りに小遣いでカーネーションを買おうとしたのに、「50円足りないって言われた」としょんぼり帰ってきたのも、きゅんきゅんする思い出だ。

カーネーションは無かったけど、心にぽっと花が咲いた。

 

その次男は今は建築家としてベトナムで開業している。

 

 

 

彼と、ミース・ファン・デル・ローエのトゥーゲントハット邸を観に、チェコのブルノを旅したことがある。

ウィーンでニューイヤーコンサートを聴いた翌日だったと思う。

クンデラの故郷は、モノクロで音の無い美しい町。

小高い丘に建てられたモダンの機能美はおどろきの1930年竣工。

プラハの春を眺め、ソ連のチェコ侵攻を耐え抜いた家である。

 

 

 

「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ/千野栄一訳/集英社文庫)を読む。

 

プラハの春に見えた自由への希望を、僅か4ヶ月後のワルシャワ条約機構軍プラハ侵攻で大きく打ち砕かれ、共産主義の言論統制下に翻弄される恋人達の生き様を描く。

200人と寝たというドンファン外科医トマーシュと、彼と生活を共にし、嫉妬に苦悩する田舎娘テレザの周囲を、スターリン、ブレジネフのキッチュ(俗悪なもの、と訳されている)が歪めていく。

哲学的で女好きなブラックジャックは、最後の最後で連れ添うテレザの回想によって本質の全容を明らかにされ、本著を究極の恋愛小説に押し上げる。そのストラクチャーがあまりに巧みである。

その心模様と人間関係を哲学的な第三者の目で語っていく著者ミラン・クンデラ、ブルノ生まれ。1968年4月に起こった民主化運動「プラハの春」を文化面から支えるも、僅か4ヶ月後の8月のソヴィエト軍プラハ侵攻により発足した傀儡政権下で、チェコ国籍剥奪、著作全篇国内出版停止。フランスへ亡命。1981年フランス国籍取得、1984年「存在の耐えられない軽さ」仏訳で初出版。1989年ビロード革命後、クンデラ5著作がチェコ国内出版解禁。

人生のドラマを重さというメタファーで表す思想的な記述もさることながら、惚れ惚れするのはクンデラの言語的なセンスである。特に意表を突く洗練されたメタファーと、まるで現代のキャッチコピーのような鋭い二語対比(「前景は分かりやすい嘘、背景は分かりにくい真実」、「悲しみは形態であり、幸福は内容である」など)は刹那的な才能が光り、久しぶりに傾倒出来る作家に出会った喜びを噛みしめる。

読書術には一工夫要る、所謂一筋縄ではいかない本の一つだろうが、ストーリーを読むというよりは彼のセンスと思想構造を読む、そんな一冊だ。

 

 

日曜、涼しく乾いた風が家の中を吹き抜けていく。

近年数えるくらいしか無い、爽やかな一日。

夫がゴルフに出掛けた後、洗濯と掃除をやっつけて、あとは日がな犬達とゴロゴロしながら好きな本をあちらこちらとブックサーフィン。

こんな日がいい。

 

トマーシュの元へやってきた時にこの本を携え、安寧を見いだす小さな存在の飼い犬にカレーニンという名を付けるテレザの皮肉な小道具、「アンナ・カレーニナ」が、次の課題本だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Karuizawa、百年の孤独

犬達を連れて、軽井沢の我が山荘に来た。

ロンドン滞在を挟み、一年半ぶりだ。

何も変わっていない。

夏用のドレープ、キイキイ軋むロッキングチェア、まだ使い込めていないドラムセット、旅先の思い出の品々、湯船に浸かりながら眺める隣地のしだれ桜・・・

夏のほんのひと時、賑やかな家族を暖かく胎内に迎え入れてくれる古家は、それ以外の長い長い時間を孤独にひっそりと埃の中で消化している。

圧倒的に長い人間不在の時間を溜め込んで超越した空間。

仕事が忙しかった頃は、ここへ来て日常の煩雑な繋がりを一切シャットアウトして過ぎる時間だけを楽しんだものだ。

この山荘は、世間から自分を隠してくれる魔法のマントのようだった。

夏の間だけ呼吸する町の特別な雰囲気もまた、気持ちの転換に大きく役立っていた。

 

 

その、夏しか使ってこなかった山荘の機能を通年過ごせるように改装した。

 

一年後に迫ったリタイア後の軸足はここに置く。

 

ロンドンでそう決めていた。

帰国後を考えた時に、今までと同じ生活の繰り返しではあまりにも愚直でロンドンに居た意味を無駄にすると感じた。

夫は唐突な提案にさすがに驚いたようだが、そこは理詰めと行動先行で、私たち夫婦と犬達と横たわる長い時間をここで見渡していく。

山荘は別荘ではなく、居宅になろうとしているのである。

 

 

 

その準備段階であり、これまでのテンポラリーな滞在と違って異例に長い今回の軽井沢生活では、ただひたすら本を読んだ。

 

コロンビアの作家G・マルケス=ガルシアの「百年の孤独」(鼓直訳/新潮社)は、完全読了に自信が無くて中国旅行中もずっと携えていたが、読書会の月の課題図書、ベストセラー本の「勉強の哲学」(千葉雅也著/文藝春秋)を読まなければならなかったため、一旦中断。また史上最年長芥川賞受賞「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子/河出書房新社)を一晩で読んだ後、相当の時間を使って一気にこの滞在で読み上げた。

 

 

読書は格闘技でありたいといつも思っている。

分量しろ、内容にしろ、本に分け入って自分の能力を振り絞り、なかなか前へ進めなくてもう読むのを断念したいと思いながらそれでも齧りついて読破した本は、デュースでマッチポイントを何度か握られながら逆転勝利したような気分になる。

本著はそういう思いを完全に満足させる一冊であったことは間違いが無い。

簡潔な短文で言い切りながらブエンディア一族百年の栄枯盛衰を500頁近い分量に積み上げる筆力とエネルギーは、見事の一言に尽きる。今までに読んだことの無いスケール感である。

圧倒されるのは分量のみならず、迸り溢れ出す生命の原始的で濃密なエネルギーである。

理想郷開拓に燃えたホセ・アルカディオとウルスラ夫妻を頂点として6代、百年に渡る連綿と続く生命の系列は、時に先代を追い越し、時に長寿が4代を見渡し、時に正統からはみ出し、常識や順序を全く無視して力強く営まれていく。特に嫡出系たる男子がことごとく変人で凄惨な死を遂げるのに対し、ウルスラを中心として嫁ぎ来た女性達が逞しく淡々と、それぞれの信念に従って大家族の屋台骨となって生き続ける姿が突出する。

種の保存という極めて原始的なセオリーを前にして、常道や正当とはどういう意味を持つのだろうか。

男子は全てアウレリャノかアルカディオであり、また非嫡出子も家系に連なるため、巻頭の家系図が読破のための大切な羅針盤となる。

 

 

様々な今後の人生への思惑を絡めながら山荘を手入れしつつ読んで、今思う。

一時は栄華を極め家系の繁栄を包括し続けたブエンディア家の大きな屋敷は、世代ごとに変容をを繰り返し、豚のしっぽを持った子の誕生を最後に一族が絶えた後、南米の旺盛な生命力を迸らせる植物に飲みこまれていく。軽井沢の楚々として涼しげなそれと異なり、南米の緑の滴りはなんと獰猛で戦闘的なことか。地球上を何千年にも渡って支配してきた植物の強靭なエネルギーに対すれば、たとえ百年を経て繁栄を極め存続したとしても、人間の営みはほんの小さな瞬間でしかない。このような時間的空間的感覚は、多分文化思想先進国の作家には描き切れないだろうと思う。

後述しようと思うミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」では、永劫回帰の思想に比べ、一度きりの人生の軽さに言及があるが、この「百年の孤独」の圧倒的なスケールから見渡した一人の人間としての立ち位置の矮小化は、やはり心を軽やかにしてくれた。

数十年後に山荘も自分も穏やかに朽ち果てていくのだろう、多分。

そう。

死ぬというより朽ちたい、今はただそう 思うけれども。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Wuzhen、烏色の甍

悠久の時を畳んできた墨色の瓦屋根が水路からぞっくりと立ち上がる。

烏鎮(Wuzhen)。

最後のデスティネーションへ来た。

 

古代北京からの京杭大運河の終点に当り、いくつかの湖が点在する中国浙江省の首都杭州からは、車をチャーターして片道1時間半ほどだ。運河最大水路の一部がこの村を湾曲しながら迷路のように細かく流れており、両岸に建つ、この地独特の黒い土で焼かれた瓦屋根の民家との美しい対比を魅せている。

どこかベトナムのホイアンやラオスのルアンパパーンに似た、ノスタルジックな風景。こういう村に出会えるのが自分のアジアの道行きの最大の楽しみである。

アジアのベニスと呼ばれるけれど、アドリア海の陽光に満ち満ちたヴェネツィアとは趣と匂いが全く違う。どこか苔の湿りのある無彩色の光景だ。

 

烏の尾羽色のストラクチャーに水辺の光を映して色を挿すのは、独特の美しい透かし彫りを多用した建具類である。

同じ水路都市ながらヴェネツィアと決定的に違うのは、水に浸かり晒される建造物が腐り易い木造家屋だということだ。木材は楠が多いという。

そしてそこに使われる繊細な透かし彫りに至ってさえなお、こうしてほぼ完璧に何百年も保存されているのは驚異的である。政府主導の保存活動が完璧に行われている所以だろう。

水路間の細長い僅かな土地に、片側を水路、片側を狭い路地に開放して、縦にびっしりと京都の町家風の鰻の寝床状家屋が立ち並ぶ。水路側はこれまた京都の川床のようなテラスが張り出しているのが普通だ。

杭州名物東坡肉、観光客相手の大箱レストランで食べても旨すぎる。

 

ようやくつなぎ止めたホテルのマネージャー相手にドライバー手配の交渉をして到達した、ややアクセスしにくい土地だが、来て本当によかった。

これでお決まりのあの観光バス連ねた団体が押し寄せていなかったら、ねえ・・・

 

 

 

中国一人旅の最後の逗留地、杭州へはこの烏鎮への足がかり拠点として、その二日前に来た。

上海虹橋駅からは高速列車でわずか1時間である。

 

水の都という旅情たっぷりのコピーから想像してきた長閑な観光町というイメージは、駅に着いた途端に木っ端微塵。何百棟もの高層マンションに、西湖を核とした旧市街地がわさーっと囲まれている大都市だった。

 

 

気温いきなり真夏日。

もう、体温調節機能は完璧にぶっ壊れている。

ホテルは三都市それぞれ違った雰囲気が欲しかったので、杭州は勝手なイメージからアジアンリゾートには古くから定評のあるブランドを選んだが、失敗した。

部屋も敷地も何だかムダに広い。

英語はほぼ通じない。

国立公園内に位置するため中心地からタクシーで1時間弱かかり、周囲に食事が出来るような環境も無いのにディナーのダイニングがお粗末。

最悪なのは、近くに戦闘機の離発着する施設があるらしく、毎朝毎夕ものすごい爆音劇がほぼ1時間続く。リゾートホテルでこれは決定的なダメージだろうと思うが、文句言ってみた先のスタッフの、それが何か問題でも?みたいな罪の無い無邪気顔見ると、この国ではそれもありなのか。

もうホテルがスタートして10年以上経過しているのに、◯球の歩き方の星の色が白ではなくグレーなのは、そういう意味かと来てみて初めて分かる。

もうここまで来ると、いっそガイド本含めた情報統制もパンダ的観光の目玉のように思える。

杭州独特の透かし彫りのスクリーンを使って部屋はそれなりに”インスタ映え”するのに、惜しすぎる。

物事の最重要点への認識が、やっぱりどこか西側諸国とは違うのだろうか。

 

送迎のタクシーを手配してもらうという一手間を余計にかけて中心街へ行き、西湖湖畔を散歩する。一周15kmを気温30℃の炎天下で歩く元気は出ず、40元払って乗り合いバギーのようなカートで巡ることにする。

天安門広場ほどでは無いが、ここも一大観光地であるから、国民の皆様の大群衆が押し寄せる。大型バスを使った自国民の大団体が大挙していたる観光地に群れる風景は、日本でもその他諸国でもかなり珍しいが、13億という人口を擁すればそれも至極当然のことなのか。

 

一通り湖散策を終えたら、まるで旧軽の森を思わせる西湖畔の並木道にあった小洒落たレストランで、とにかくホテルのダイニングを当てにせず夕食を食べる。

この通りは、美術館や、こんなレストランやバー、香しいパンを売る小さな店が建ち並び、ここだけ西欧のリゾート風。

白ワイン2杯にほろ酔い、迎えのタクシーの時間を気にしつつ早足で歩き見た西湖の夕暮れは、団体客もすべて撤退し終え、それだけは本当に美しくほっとした。

 

 

 

10日間の中国一人旅。

距離的に近いというだけで無防備なまま来てしまい、考えてもみなかった中国のシステム的なところでかなり戸惑ったけど、総じれば、異文化を見るというのはまさにこういうことだ。

歴史が残した文化遺産や芸術ばかりでなく、政治や暮らしの異質さを楽しむこと。旅の醍醐味は、まさにそこに尽きると思う。

旅の翼に乗ってしまえば日本列島はあっという間に眼下に迫る。それほど近い国なのに、流れている日常はなんと見知らぬ色に染まっていることか。そんなところを一介の旅行者であれば暢気に楽しんでしまえるが、連日の報道のように両国間に横たわる大きなギャップと対立は深刻である。

距離的に近いのに、精神的にはとても遠い国、中国。

でもまたいつかただの旅人として幾多の先入観を超え、横たわる時間を感じに彼の地を踏みたいと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

Shanghai、租界の街

混迷の北京をあとにして、上海に来た。

 

 

北京から上海までは、中国の誇る新幹線に乗ってみるつもりで来た。

日本からの行き帰りのエアチケットだけ取って、国内移動は行ってから何とかなるだろうとお気楽に考えていたけど、北京へ来て英語があまりに役に立たないので、移動の列車確保は東京駅で新幹線の切符を買うようなわけにはいかないことが何となく分かってきた。

さて、どうするか。

ペニンシュラベアを持ってきてくれたレセプションのお兄サンに切符購入事情を聞いてみると、いとも簡単に「コンシェルジュが買いに行きますので、ご希望の時間を伺います」との返事。心の中で、やった!と思う。

(ペニンシュラ北京のベアがページボーイの制服着てない。尖りぶりがいかにも北京)

エコノミー<ファースト<ビジネスというシートランクに一人大ウケした後、ファーストの代金1000元の現金とパスポートを他人に預けるというちょっとハイリスクなオーダーをする。そこは世界の半島酒店を信用した。

果たして3時間くらいでチケットとパスポートが届けられ、よし、これで上海までは行ける、その後のことはまた上海についてから考えようと独り言つ。さすが半島酒店。

 

 

前述したように、中国で列車のチケットを買うにはIDが必要。外国人はパスポートを提示して、チケットには個人名とパスポートナンバーが入る。駅に入るにも空港のようなセキュリティチェックがあるし、改札でもパスポートとチケットを照合される。一挙一動を国家に監視されてる気がする。

実際に搭乗口のような改札にはこういう方々がいらっしゃる。

 

北京南駅はまさに空港かと見まごうような大空間。

そこに隙間無く詰め込まれ動く、13億の何千分の一かのものすごい数の旅客者の濃密な集合体。結構迫力ある眺めである。

「一等車のお客様は並ぶ必要がありません」

まごつきつつ目当ての搭乗口を見つけて大群衆に混じって並んでいる私に、翻訳機の日本語を見せて、優先搭乗口から指定シートまで案内してくれたのは、駅のあちこちにいる案内係の青年の一人。これは料金かチップを取られるのだろうと推察して20元札(約340円)を渡すと、顔を真っ赤にして要らないと言う(言ったと思う・・)

インドだったら100ドルとか言われそうだなあと思うと、中国のサービスシステム、なかなかいいじゃないかと思う。

 

シートは日本のグリーン車よりゆったり。上海までは6時間弱という大移動だが、これならまったく問題無し。

移動中に読むのは「百年の孤独」と上海指南書、到着する上海虹橋駅で、どうしても明後日の杭州行き列車のチケットを取っておきたいのである。今度はペニンシュラのコンシェルジェは居ないので、自力で。

外国人は自動切符販売機を使えないらしいので、中国語が話せない以上、これは窓口で筆談しか無いと腹をくくる。

◯球の歩き方に出ていた時刻表サイトにアクセスして列車をテキトーに選び、こんなメモ書きを作って一か八かパスポートと一緒に長蛇の列の先の窓口に出してみたら、結果的にあっさりと切符は買えたのである。これでかなり中国鉄道の旅の難易度は低くなった。

 

 

上海のホテルは大ブランド街、新世界のイルミネーションパノラマビューのハイアット系のデザインホテルの高層階。

何を目指したのか、やり過ぎな感じのデザイン。

This is THE SHANGHAI.

 

上海はこれといって目的は無かったのだが、知り合いがちょうど上海に来ているというので、一緒にご飯でも食べましょうと言うことでプランに組み入れた。

なにしろ一人ご飯は相当ハードルが高い国である。

ロンドンでよく一人で入ったイタリアンやフレンチ、鮨バーなんて何処にも無い。すべて中華、中華、中華料理である。町中にずらりと並ぶのは、大勢の家族やグループが割れるような声で話しながら山のような料理を平らげている大食堂ばかりである。

それでも中国に来たからには何か美味しいものを絶対食べたいと、何とかご飯相手を確保。二人で勇んで出掛けるはもちろん上海蟹である。

北京で北京ダックは食べ損ねたけど。

季節は外しているのだろうが、日本で食べる、値段ばかり上等で味のしない上海蟹しか知らない身にはぐっとくる濃厚な本場の味。合わせた中国産の白ワインもなかなかだ。

 

北京よりだいぶ南下したせいか、上海は町歩きが楽しくなる気温だ。

町のサイズ感も東京に近い。

 

 

 

今は高層ビルが林立し銀座のようなブランド街に席巻された上海に、それでもどこかコテコテ中国色の北京とは違う欧米の香りが感じられるのは、その昔、イギリス、フランス、アメリカの外国人居留地、租界から発達した街だからだ。

私の上海町歩きはそんな界隈を中心に。

プラタナスやカエデの並木道に、新緑が涼しげな影を映す昼下がり。

 

東京の地下鉄よりはるかに分かり易く、清潔でホームガードも完全整備の地下鉄も、町歩きの大きな味方だ。

 

 

北京ではとんでもない寒さと大きさに負けそうになったけど、ここへ来てかなり旅の勘所が戻ったって感じ。

 

 

どの国へ行くときも、一人で最初にそこへ降り立つ時には、未知の風習や地理や歴史や人々と戦おうとする拳を握りしめる。

しかしいつもその土を踏みしめて歩き、そこの人々と触れ合い、その土地のものを食べているうちに、深呼吸が出来るようになり、肺と心が少しずつ開かれ、また少しずつその国に自分が馴染んでいくのを感じる。

最初異文化の度合いがハンパなく、とんでもないと思ったこの国も、また然りである。

ベッドの中から朝陽をバックにした魔界の今を見る時、中国なかなかいいじゃないかと思っている自分がいる。

 

 

次は杭州へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Beijing、長城へ

中国へ来た。

12月のフィンランド旅行の後、全く一人旅に出ていなかったので、両足に根が生えかけていたが、ようやく飛べた。

北京到着後わずか2時間で、私、舐めてたなこの大国、と気付いた。

同じアジアだし、お隣だし、3〜4時間で着くんだし。欧米を旅する度に味わう砂をじゃりっと噛みしめるようなビハインド感とか無いだろうし。

しかしホテルにチェックインした後夕食まで散歩しようと街に出て、突然◯oogle mapが作動しないことに驚愕する。取り替えたばかりのiPhone Xに何が起きたのかと思う。

仕方ないので持っていた◯球の歩き方の地図を頼りに歩き出すも、行けども行けども同じ風景のような気がする。共産主義の威容を魅せ付けるように堂々と立ち並ぶ機能重視(威容重視?)ビルディングはすべて東京ドームサイズ、格子状に整備された道路は道路自体が一本一本皇居前広場サイズ。地図で受け取る距離的な感覚が狂いまくる。

 

 

 

小雨がぱらつき出し、気温は4〜5℃。25℃の東京から飛んできて、いきなりの先制攻撃受ける。

私、北京に歓迎されてない。

世界をいろんな意味で脅威に巻き込むこの大国を舐めてもらっちゃ困る、と、どこに天安門があるのか全く分からないほどの広場を埋め尽くす人民の壮絶な量感と異質の声色がそう唸り寄せて、自分をホテルへ押し戻すようだ。

とんでもない国に来ちゃったよ。

一歩ホテルを出れば英語は全く通じない(中国系だとホテルもダメらしい)し、サインも読めない、レストランのメニューも読めないので、かなりのアウェイ感。まるで自分がとぼとぼ道を歩くホームレス犬になった気分で、這々の体でホテルに逃げ帰る。

雨の当った革ジャンにびっしり付いたpm2.5の涙跡。

あまり現実的に感じることが無かったこの空気汚染問題、ビジュアル的に突きつけられれば結構ショックだ。

寒さに加え、コミュニケーション不能、道案内不能、さらには爆弾的圧倒多数の中国人民人口に完全に負けてにわか引きこもりとなり、せっかくご飯がおいしい中国に来たのにさあ、という本来の声は無視することにして、夕食は困ったときのルームサービスとする。

あまりに空腹だったため、点心1個食べてからのショットとなる。

お供にミニバーの白ハーフボトルを一本。

ああ、ロンドンから週末ごとに出掛けていった、ヨーロッパの箱庭のような小さな町が懐かしい。

 

 

大きいのは道路や建物だけではないらしい。

ヨーロッパのホテルの2倍はあろうかというペニンシュラ北京のシャワーキャップに結構笑う。

 

 

さて、この国を舐めてた、と反省する一番の根拠は、世に言われる中国の情報統制に対する知識も対策もほとんど持たずに訪中してしまったことだ。上海に毎年仕事で行くという知人が、LINEは使えないからWeChatを入れていけとは言ったけど、◯ーグルが使えないなんて、何人もの訪中経験者に様子を尋ねたけど、誰も言わなかったよ。

日本ではもちろん、初めての海外を一人歩きするには◯ーグルマップは必ず必要だ(と私は思っている)。ロンドン生活もそれで難なくクリアーできたし。

スマホが無かった時代に海外の一人歩きを始め、当時は紙の地図に丹念に事前調査の道順をマークして歩いたものだが、この機能を手にしてから細かい地図を凝視する老眼との折り合いを考えなくて済むようになり、よりお出掛けに拍車がかかってきたところだった。

しかし今や翼をもがれた小鳥状態。

アフリカなど途上国で通信事情が分からない国は現地ガイドを付けて用心するが、まさか国連常任理事国で、お国の政策によってそれが遮断されているとは考えなかった。甘いのである。

慌てて中国版◯ーグルマップとも言うべき「百度地図」を使うしかないとそれをインストール、使い始める。

しかしながら当然中国語オンリーである。国際的共通マーク「!」に励まされるも、中国の漢字はすべて毛沢東時代に制定された簡体字なので、日本のiPhoneでは変換叶わず簡体字の地名を入力出来ない。仕方なく、目的地に出来るだけ近い簡体字を使わない場所を入力したりして・・・いろいろ使い勝手として問題は残るが、かなり正確なナビゲートをしてくれるので、滞在中ようやく翼を与えられて行動できたという顛末。

閲覧出来ないサイトや検索機能もいっぱいある。

地下鉄の駅でも外国人と見るやパスポート提示を求められるし、セキュリティチェックもある。

今回都市から都市へは新幹線や高速列車を使ったが、そのチケットを買うにもいちいちパスポートを提示しなければならない。パスポートナンバーがチケットに印字され、外国人一人一人がいつどこへ移動しているかがすぐ国家に分かる仕組みにもなっている。

国家統制がこんなに徹底してると、反面それは大多数の罪なき観光客にはかえって安全だったりもするんだろうし、水面に出ようとしない大半の人民には楽だったりもするのかも知れない。

与えられた情報だけで蠢く13億の人民。

大きな違和感は感じるが、その統制はかなり上手く機能しているように私には感じられる。

不必要に多く大きく、常識が見えない。

この混沌の感覚を夢の中に連れていく。

 

 

 

あまりよく考えもせず、飛行機とホテルを適当にインターネットで取っただけで単身壮絶大陸に乗り込んでしまったのは、一つには万里の長城を足腰が元気なうちに歩きたいからだった。

自然の景観よりも、人の手にまみれ、時勢や文化を写し取って作り込まれた創造物にベクトルが向くのが私の常である。全長2万キロ以上にも及ぶ石垣を作ってまで恐れた北方民族からの脅威とは、どれだけ果てしないものだったろう。

 

比較的北京市内に近く観光客がごった返すという八達嶺長城を避けて、市内から150km離れた金山嶺長城まで足を伸ばす。

この日、北京市内でも気温3℃。

さらに北に、山奥に分け入る金山嶺では、山々は残雪と咲き誇る山桜を纏い、穏やかに早春の空の褥に添い寝しているように見える。

その一連の尾根全体に長城独特の狭間の凹凸シルエットが見えた時に、そのあり得ないスケールを図り知る。

尾根まで上がるロープウェイ(古色蒼然としているシロモノ。いつ落ちてもおかしくない感じ)中で中国セブンイレブン販売のメロンパンを補給して、到着地点から長城を眺め渡すと、まずはその航路の勾配に愕然とする。

遠くからはなだらかに見える長城は、山の起伏に合わせて乱高下を繰り返す要塞上の通路としてその機能を誇示し、ところどころの楼閣上においては深い濠(緊急時には水を溜めて通行を遮断したと考えられる)を降りて登らなければならない。

歩いたのは4キロくらいだと思われるが、とにかく腿にきた。

しかし山桜に縁取られながら横たわる長城の幽玄の距離は、異国からの旅人をなんと魅了してやまないことか。

その気の遠くなるような仕事量と資材量は、当時の皇帝の北方民族への恐れがいかほどのものであったかを示唆し、こんなにまでしてもモンゴル民族が攻め入るのを防げなかった歴史の結果を知っている現代の目からは、また偉容が哀しくもある。

故宮でもなく、頤和園でもなく、私の北京滞在はこの長城訪問がすべてだった。

翌朝の腿の筋肉痛も、達成感の一つとなる。

 

 

北京の市中歩きの日は一番の寒さ。

革ジャケットの下にライトダウン重ね着ても、震えが止まらない。

是非見て体験してみたかった市中のニーハオトイレは、想定外のクリーンさ。

頻繁に清掃が入り、「誰もいなければ」ちゃんと使える。(体験済み)

衝立て付きはさらに難易度が下がる。

いろいろ北京はツッコミどころ満載だ。

セブンイレブンで買える専用のマスクで是非歩いてみてください。

 

 

 

次は上海へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Tokyo、震災後7年、怒りの葡萄

東日本大震災から7年である。

あの時、今は静かに美しいこの界隈に私はおり、丸の内と大手町中のビジネスマンが一斉に皇居前広場に避難する人混みと、何が起こったかよく分からない不安を必死でかき分けて歩いた。当時、大手町再開発がスタートしたばかり。沢山の高層ビルが工事期にあり、建設半ばのパレスホテル東京のてっぺんにあったブルドーザーが今にも落下してきそうで、歩みを早めたことを思い出す。

本当に日本が滅びるんじゃないかと思わせたものは、地震そのものよりも、後に来た津波と福島原発の惨劇だった。日本が失ったものは、多くの命、多くの財産、日々の生活への信頼、世界からの信用。

日常はこんなにも脆い土壌の上に偶然のように成り立っているんだと絶望した。

たった一つ、あの震災の悲劇の中で救われる事実があったとすれば、その後の被災地救済や電力・物資不足を踏まえて、みんなが今を乗り切ろうと力を合わせて動いた時期が少なからずあったことだ。ボランティア活動が盛んになり、困難者を応援し、弱者に手を差し伸べようとし、自分の何かを我慢して救済や節約に貢献しようとみんなが頑張ったと思う。

あの頃の日本は、経験してきたクリスマスの頃のロンドンと少し似ていた。人と人との繋がりが密接になって、苦しみの中にいる人を思いやる心が生まれていたように思う。

しかし、7年経ち、日本はもとの豊かさを取り戻すのと同時に、その頃の謙虚さを忘れてしまった。

原発は再開し、電気は使い放題。駅で肩がぶつかっても何も言わず、電車内ではお年寄りにさえ席を譲らない。

日本人は丁寧で親切で礼儀正しいなんて、これでどうして言えるんだろう。

今日は、日本が傲慢を捨てたあの時を思い出す、そんな日だと思う。

 

 

 

 

その震災の時、ママのお腹にいて、夏には7歳になる孫娘に、55年間連れ添ってきたピアノを譲ることになった。

父がこのピアノを買ってくれた時、私はまさに今の孫娘と同じ6歳であった。

戦後わずか10数年、娘にピアノを習わせるのは豊かさの象徴だった時代。当時一介のサラリーマンだった父は、私の小学校入学を機に家を建て、車を買い、ピアノを買って、昭和の「総中流」に乗り遅れまいと頑張ったんだと思う。

まあ、弾き手の方はそんなに熱心でもなく、学校の帰りに菓子パンを食べさせてもらえるのが楽しみで先生のお宅に伺っていたくらいのものだったが、ピアノはその後、うちの二人の愚息にも使われ、この二人もいつしかピアノから離れた後は、度重なる引っ越しに耐えながら我が家のどこかにしんと居住まいを正していた。

この頃のピアノは、今のものとは比べ物にならないくらい良質の材料を使ってがっしりと作ってあるらしく、引っ越しで専門搬送業者を頼むたびに売ってくれと言われていたが、調律と塗り直しをしながら維持してきた甲斐があった。

家を出て行ったピアノは、長男の家でさっそく孫娘に弾いてもらい、その微笑むような音色と画像がお嫁さんから送られてきた。

三世代に使われるピアノのその音を、買ってくれた父が空の上で一番喜んで聴いてくれていると思う。

 

 

「怒りの葡萄」を読了する。

「怒りの葡萄」(ジョン・スタインベック/伏見威蕃訳/新潮文庫)

 

もともとロンドン滞在中に読書会で読んで前述した「プリズン・ブッククラブ」の中で取り上げられていた本だったが、言わずと知れたこの有名な作品をまだ読んでいないことにも引け目を感じて、早速今月の課題図書にしたいきさつがある。

そしてこれも前述したように、先月の「トラクターの世界史」でも思いがけずこの本に繋がり、もう導かれるままにという感じで上下巻1000ページを夢中で読んでしまった。

 

 

まさに「出エジプト記」である。

世界大恐慌と重なる1930年代、トラクターという一機で人間十数人分の働きを奪う馬力を持った鉄の犂の出現で農地と仕事を奪われたオクラホマ周辺農民は、カリフォルニアが新しい実りの大地だと信じて、鉄屑同然の車でR66をひたすら西へ移動する。ロッキー山脈、アリゾナ砂漠を超える困難の道行きで、意欲や身体の弱い家族がどんどん抜け落ちていく。

そうまでして到達した彼らを待っていたのは、手段こそ違ってはいたが、支配者層が労働者達を踏みにじる構造の上に成り立つ歪んだ資本主義でしかなかった。

もがいてももがいても浮き上がれない泥沼のような毎日。働き手の男達が次第に疲弊して勇気を失くしていく中、女性特有の情愛に満ちた逞しさで家族を牽引していくジョード家の「お母」と、打ち拉がれた無数の弱者の人生を集約させて、下からの絆と力を生み出すべく立ち上がる次男トム・ジョードが主役。

1939年の出版当時は、アメリカ保守層から大きな非難を浴びたというこの作品で、スタインベックは1940年ピューリッツァー賞、1962年ノーベル文学賞。

ラスト、我が子を死産したばかりのトムの妹が、今にも餓死せんとする見知らぬ男に母乳をふくませるシーンで、1000ページが一気に精神的な高みへ到達するのを感じた。

 

 

 

庭のローズマリーが生き生きとしてきた。

さあ、春が来るよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fujimino、おっぱいとトラクター

帰国から一ヶ月が経った。

一旦は身体に染み透ったかに思えたロンドン生活を、こんなに早く脱却出来るとは思わなかった。否応無しに畳み掛けられる毎日の雑事は、まだ浸っていたい感傷を容赦なく剥ぎ取っていくものなんだと思う。

それは悔しいようでもあり、必要なことでもある。

ロンドンの330日は、他の自分の60年と同じように、ピアノの上の小さな額の中に納められた思い出の一つになりつつある。

それはやはり人生の中の特別期間限定のエキジビション、ひととき輝いて消える冬の花火だった。

 

 

毎日必ず夕ご飯を食べる相方が居るというのは、やはり幸せなことだ。

地元のスターバックスに行っただけで「お帰りなさあ〜い。帰っていらしているって聞いてましたので(誰がスタバにまで報告してるんだ)、じきいらっしゃると思ってました」と言われるこちらの生活に比べ、自分がどこで何を食べようとそれを誰も知らないというのが、ロンドン生活当初は最高に自由で嬉しく、友達と出掛ける時以外は一人外食も散々したが、後半はさすがに、食事中の孤独と戦うモチベーションとロンドンを食べ尽そうという気力が失せ、それも虚しくなりつつあった。

今はだいたい18時の夕食の目安である時間に所在不明になっていると、相方から「今どこ?(ちょっと非難めいた文面)」とラインが入るのはやや鬱陶しいし、必ずしも自分が今日食べたいと思っているものが口に入るわけではないが、まあ、軽く酔いながら軽口叩ける相手付きの食事というのは、たとえ地元の安酒場であってもそれは楽しいものだ。

 

 

そしてやっぱり気合いが入った日本の料理は素晴らしくおいしい。

蒸し上げてほっこりとした鰻。

ガーキンのような芸術的な鮨。

サシの入ったしゃぶしゃぶ肉。

甘さが美しいアオリイカ。

ロンドンにいる私の心を鷲摑みにして、いつも日本に引き寄せようとしていたもの達だ。

 

 

大して上達しなかった英語は、時を待たずに既に摩耗し消滅しつつある。

日本人の友達と会う時以外はEnglish or nothing だった日々に比べ、母国では自分から獲得しにいったとしても英語を話すチャンスはごく僅かだ。急速に聞く力も話す力も衰えてしまったと感じる。

そして日本語にまみれ、日本語で文化や思想を吸収していく元の生活は、ちょっと(330日を思えば)残念な気もするし、量と深さは英語生活の比ではないから、同時に非常に充実感もある。

質と量と層の厚さではトウキョウのはるかに上をいくロンドンのエンターテイメントの中で、最も難しかったのが映画だった。

久しぶりで定年間際の夫と出掛けた映画はもちろん字幕付き。この年代が突きつけられる一番深刻な問題をえぐってなおからりと明るく、実際に夫婦がここまで寄り添える展開は日本では無いと思ってもまだ救われる。隣席でCoCo壱ポップコーン頬張っていた相方は何を思ったか。

 

 

意外や意外、映画よりはるかに理解し易く感動も大きかった英語劇は、トウキョウでは発声・発音のプラクティスと割り切って、たまたま見つけた素人劇団で演じる側に転じてみる。

無理矢理なんとか英語を口から押し出そうという悲壮な覚悟である。

 

 

突然だが、ヤンボー、マーボーの天気予報をご存知か。

中毒のように読む本は最近トラクターである。

 

ロンドンに行く前からの読書仲間との今月の課題図書が「トラクターの世界史」(藤原辰史/中公文庫)。何が哀しゅうてアーバンなマダム生活にトラクター?と最初は全く気乗りがしなかった本だったが、そこは今回読書会の強制力の勝利である。いや、本当に面白いのである。

第一次、第二次とちょうど大きな大戦に挟まれた時代、1920〜1930代に産声を上げたトラクターは、人馬の動力に頼っていたそれまでの農耕を飛躍的に変える「鉄の馬」として、同時発生的に全世界で注目されることになる。その圧倒的な動力は収穫を急増させ、農民を苦役から解放する夢の機械と当初はもてはやされたが、その強力な破壊力は大地を掘返して荒廃させただけでなく、人間の心にまで深々と犂を打ち込んでしまう。

アメリカの資本主義下ではトラクターの重量による土壌圧縮と化学肥料の大投与によって土地が浸食され、そこから発生する大量のダストボウル(砂塵)が全米を覆う。

自分たちが先祖から与えられ、丁寧に耕し続けてきた大地を、1台で小作人14〜15人分の作業をこなすトラクターが鉄の犂で強姦していく。トラクターに仕事と大地を奪われたアメリカ農民に鉄の馬への敵意が生まれる。

その憤怒を土台とした農民の苦難が、不朽の名作スタインベックの「怒りの葡萄」へ繋がっていく。

「怒りの葡萄」(ジョン・スタインベック/伏見威蕃訳/新潮文庫)

 

 

東西冷戦のまっただ中、もう一方のソ連の共産主義下においてはその圧倒的な耕作動力は、暴君スターリンの目に留まる。こちらは国家主導で国営農場ソフホーズや集団農場コルホーズに積極的に導入される。

中でも比較的気候の穏やかな穀倉地帯ウクライナ地方に政府は白羽の矢を立て、集団化に反対する富農を弾圧するために収穫した農作物をを全て取り上げるという報復に出る。

その3000万人のソ連人が死んだという大飢餓時代を背景に、ウクライナから逃げ延びてイギリスに暮らすトラクター技師ニコライが、自分の1/3の年の若い巨乳のウクライナ女性に入れ込み、偽装結婚で彼女のイギリス永住権を得る手助けをしてしまう顛末を、その時代を知らない娘の目で描いたのが世界37ヶ国で翻訳されたベストセラー「おっぱいとトラクター」(マリーナ・レヴィツカ/青木純子訳/集英社文庫)である。

まったく色ボケジジイが、と憤懣遣る方ない娘が巨乳不法移民女を追い払おうとする過程で露になってくる、両親と姉のウクライナ迫害下の壮絶な過去は、コミカルな語り口とは裏腹に目を覆うばかりだ。

この3冊は、ニコライが自著「ウクライナ版トラクター小史」の最後に綴る、『人類に有益なテクノロジーはいかなるものであれ、適切かつ敬意をもって活用されなくてはならない。この心理をもっとも端的に代弁してくれるのがトラクターである』という一文に集約されると思う。

さらにトラクターは、その独特のキャタピラー構造によって、第二次世界大戦下には各国政府が戦車に転用を図っている。人類の生命の糧を生み出すための道具は、死の兵器に姿を変えた歴史をも併せ持つジキルとハイドでもあったのだ。

「トラクターの世界史」は、無機質なこの農作機械が、まるでその皮肉な運命を背負わされた悲哀の生命体であるかのような、穏やかな暖かさを持った著者の目で綴られているのがすごくいい。

 

この3冊を夢中で読むと、本とはみなどこか根底に繋がっており、一つを選び出すと、芋づる式に次に読みたい本が決まってくるものだという公式が浮かび上がる。

そんな連鎖をここ2〜3週間楽しんだ。

 

 

春を告げる日本の行事が、また一歩ロンドンから立ち上がる背中を押してくれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Tokyo、日本のおばさんになる

40数年ぶりという大寒波が、関東と、現実に引き戻された傷心の我が身を直撃した。

北緯51度、樺太と同緯度のロンドンは、寒いぜ、霧と雨ばかりだぜと散々脅かされていったが、何のことは無い、日本の寒さの方がよほど身に堪える。

 

帰国して真っ先に感じたのは、地震という破壊ダメージが無いために、100〜200年前の重厚な厚みのある建物が現存して使用されているイギリスの街並みに比べ、日本のそれはなんと薄っぺらく、よって寒々しく、またなんと実用本意で、よって趣が無い感じがするのだろうかということである。ちょっとロンドンに住んでたくらいのにわか非国民め、と批判が集中するのを覚悟で言うが、実際、体感的視覚的に寒々しいのである。

 

日本でスカイラインをぶち壊す無秩序な電線は、ロンドンでは完全に地下に埋没されているため、街角のショットが全て絵になる。

I miss Londonである。

ちなみに帰国後すぐに出掛けた近所の川越小江戸では電線が地上に無く、ロンドンと同じように町にカメラを向ける気になった。

 

 

手放すのには躊躇いがありすぎるそんなロンドンへの思いを、この2週間は新しい人生を構築する準備を始めることで弾みをつけ、薄皮を一枚一枚剥ぐように自分から引き離してきた。

留学生活とは経験した者が誰でもそう言うように、自分だけが第一人者の非現実の夢の世界である。いつまでもそこに浸っていたいが、生きていかねばならない環境はそれを許してはくれない。

日本で待っていてくれた家族は、その責任を思い出させてくれると同時に、ロンドンで度々感じた孤独感と現実からの浮遊感を拭ってくれた。

 

人間はやはり家族を通し、友人を通し、仕事を通して社会と正常に繋がってこそ、存在出来るのだと自覚した。

ロンドンで暮らしたことで一番大きく自分の中で変化したのは、これまで疎ましいと思っていた他人との接触は、実は生きるための理由付けになっていたという、この事実に気付いたことである。

だから生きる必要が無くなった時には、旅の途中で心惹かれたコーンウォールの岬の果ての小屋に一人で暮らそうと思う。(現時点での勝手な妄想)

 

 

ロンドンでは必要最小限の衣服・持ち物で暮らしたので、毎日が殺伐としない程度の生活に必要なモノの分量が把握出来たことは、二番目に大事な気付きであった。

暖かい守られた小さな部屋と、2〜3本のジーンズ、5〜6枚のセーターとオーバーコート、1着のよそいき用のワンピース、そして清潔な白いリネン、時々お気に入りの花。美味しいバターと新鮮なクロテッドクリーム、なるべく上質なスコーンと噛みしめて味が出る全粒粉ブレッド、オーガニックのアールグレイ。キッチンのラックに、ドライな白ワインと芳醇な赤ワイン、一本ずつ。

 

自分が惨めにならないために必要なものはこんなものだ。

気持ちが十分満たされ、行動の意欲に燃えていれば、所有物の多寡は幸福感に関係が無いと思い知った。

 

そして日本の自宅に帰ってみて愕然とするモノの多さ。

自分には永遠に無関係だと思っていた断捨離という言葉は、持ち物を減らすことで得られる自由と新たな価値観のスペースを獲得する方法と理解し、先ずは山のような衣服の整理にかかる。

 

 

とっかえひっかえお洒落するための洋服やアディクティヴな買い物の代わりに、ロンドンでエンドルフィンの分泌に役立ったのが、オペラやバレエ、ミュージカルのようなエンターテイメントや、美術館で触れるアート、旅のスリルと感動、そして読書、勉強の達成感であった。アートやエンターテイメントは持ち帰れないが、自由な旅の仕方と一人生活という利点を生かして許される限り時間を使い切った読書の習慣は、そのまま持ち帰り、日本で行動を起こす最初の起爆剤となった。

東京のとあるブッククラブと、ジェーン・エアの感動を追いかけての英語劇グループへの参加は、新しい日本での生活の最初の足がかりだ。

 

 

ドラムのレッスンを申し込みついでに、西洋美術館へ足を伸ばす。

北斎は日本での不遇を海外で挽回した、おそらく日本美術史上の第一人者だと思う。

British Museumでも昨夏HOKUSAI展があり、その頃一緒に暮らしていたフラットメイトがコーディネーターとして関わっていたので、非常に興味深く観たのは記憶に新しい。

今回のこの日本の展示は、北斎の意匠が西洋美術史上に与えた影響を、意匠を汲んだドガ、モネ、モディリアーニ始めの錚々たる画家達、ガレ、ドームなどの工芸作家達の実際の作品と北斎の原画をペアにして展示して探っていくという、非常に工夫された見応えのあるものに仕上がっていた。

富士をエッフェル塔に置き換えた、アンリ・リィヴィエール「エッフェル塔三十六景」。

一度見たいと思っていたが、夢が叶った。

ロンドン中の美術館を散歩し歩いた道が、東京に繋がっていると感じた。

 

とはいえ、入場料取るんだ(ロンドンのほとんど美術館は入場料無料)、待ち時間表示あるんだ、と日本あるある。

 

北斎富士山チョコレート、パンダ塩。

久しぶりの上野は、なんだかちょっとくだらなくて、ちょっと楽しい。

 

薬事法の違いから、カラーリング剤や除光剤の濃度が日本の数倍の強さというロンドンに後数ヶ月居たら、頭はハゲになり、爪は溶けるぞというエマージェンシーな瀬戸際での帰国だったので、サロンに駆け込んでホッと一息。

またこのサイクルが始まっていくんだなあと思う。

 

ぱりぱりの甘くない焼き鳥。

軟骨にホッピー。

そして4人で16本の熱燗。

ご近所とのお付き合いも再開した。

 

 

 

私のロンドンは終わった。

今、その現実に向き合おうと必死だ。

周りの人達との触れ合いと、少しずつ身体に入っていく日本の栄養が、11ヶ月前までそこにあった日常と今を混ぜ合わせてくれるのを感じる毎日である。

 

 

しかし、もう元のままの鞘に私の人生が戻ることは無い。

ロンドンに暮らしながら幾晩も考えたことは、目前に迫るリタイア以後の人生だった。

図らずもロンドンから自分のこれまでを眺めた時に、今後切り捨てるものと残すべきものの区別がはっきり出来たように思う。

 

がんばれ、日本のおばさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Chelsea Bridge、大きなハグを

最後の一週間は、外に出掛けて英語で触れ合うことすら面倒になり、ともすると家に閉じこもってしまいたいという思いを振り払うように、ロンドンから自分を追い出した。

11ヶ月前にヒースローに降り立った時は夫との二つのスーツケースだけだった私の持ち物は、ロンドンのくろねこさんから買った8コの段ボールにぎゅうぎゅう詰めてもまだ溢れるくらいに膨らんでいたので、その整理作業に追われながらも大好きなイギリスの田舎行きのトレインに憑かれたように飛び乗った。

 

Ryeは本当に小さな町だった。

以前に友達から是非行ってみて、可愛い町だからと勧められていたし、地球の歩き方はイギリスで最も美しい町と持ち上げるが、それらは夏に行った場合、という期間限定評価かも知れない。

前に行ったLewsも小さくて感じが似ているが、Ryeの規模はその5分の1といったところか。地球の歩き方が3時間あれば十分です、と記載しているのを疑問に思いながら30分ですべて歩き終え、St. Pancras Internationalから2時間かけて来て、2時間滞在し、また2時間かけて帰るという半日旅だった。

 

それでも、教会の近くの古いティールームでひとやすみついでに食べたクリームティーのスコーンは、さっくりふわふわで、今まで食べた(これまでいったい何セットのクリームティーを食べたことだろうか?)中で最高のスコーンだった。

火がぱちぱち燃える暖炉の前で、他のお客さんたちが連れて来ている犬達が寝そべり、外の冬枯れの雰囲気とは対照的なあったかいティールームだった。

一軒だけ開いていたアンティーク雑貨屋で、パイファネル2個とプードルブローチを1個買った。全部で15ポンドだった。

 

 

公衆浴場というものが苦手なので日本でも滅多に温泉に行かないから、比較的アクセスが軽く、世界遺産登録の建造物が多いBathには今まで行こうと思わなかったが、ここのファッションミュージアムにはずっとアンテナが立っていた。

最近一日として傘を持たずに出掛けられる日が無かったが、この日の天気が背中を押してくれた。

 

Paddington駅からダイレクトで1時間半、乗り換え無し。

Bath Spaって駅名がすごいな。そこまで強調しなくてもいいのにと思った。

そこは温泉が湧き出ることからジョージアン王朝の保養地となり、18世紀の石灰岩でできた蜂蜜色の建造物がそのまま残る美しい町だった。

お目当てのファッション博物館は顎が外れるくらいoverratedだったが、ゴシック様式のBath Abbyが素晴らしかった。

 

 

フィンランド編で様式に法られた中世の建造物よりも…みたいなこと書いたが、やっぱり出来のいいゴシックの扇状ヴォールトは見る度に大感動。なんだか建築物というよりは手の込んだオートクチュールのドレスを見ているような気がした。

私にとってはこちらの方がファッションミュージアムであった。

 

 

ローマン風呂博物館も観るには観たが、前述したように公衆浴場に興味が無いので、ふうーん、という感じで終わった。

ロンドンに次ぐ観光町なので小洒落たカフェやレストランも沢山あったが、お腹がちょっと痛かったので、何も食べず、何も買わず、またトレインに乗った。

 

 

宿題や予習復習の時間が無くなった代わり、飢えてきた日本語をバケツで浴びるかのように、送ってもらったまま読んでいない本を貪り読んだ。一晩で一冊の文庫本を読む勢いだった。

ロンドンまで来て、こんなことをしている自分はなんなんだろうと思った。

 

 

特に刑務所内の囚人たちの読書会を1年に渡って追った、240ページに渡る「プリズン・ブッククラブ」は、修羅場をくぐったぎりぎりの人生に読書が風穴を開けていくドキュメントであった。読書の究極の意義を考えさせられた。ロンドンには何百という読書会があるというのに、日本であまりこのコミュニティが発達しないのはなぜなんだろうと思った。

 

 

 

住んでいた部屋を出る前の最後の一冊は、なぜこの本が今、ここで私に当ったんだろうと思わせる一冊だった。

「月の上の観覧車」

私が特に頼んだわけでもないのに、夫が次男の本でも間違って荷物に紛れ込ませてしまったのか、作者は今まで知らない人であったが、裏表紙の経歴を読んだら私と同年生まれであった。

人は自分の先にある人生が今まで歩いてきた道より短くなったと気付いた時に、前を向いて先へ先へと目標を追いかけてきたベクトルから回れ右をして辿ってきた過去を振り向くようになる。

そういう八篇の短編をまとめたものであった。

特に最初の「トンネル鏡」は、母一人子一人の家庭に育って東京に出た息子が、母の死後に夢破れて故郷に帰る列車の車窓から追った自分の人生で、息子と母親の「距離」の描写に胸が熱くなった。

最後の「月の上の観覧車」は、栄華を誇った会社の斜陽と自分の人生とを重ね合わせて観覧車の一周で回想する、秀逸な一篇だった。

 

 

今までただただ突き進んできた夫と私の共同作業も、今、長男に手渡そうとする過渡期にある。

私も帰国したら否応無しに現実と向き合い、その整理に着手しなければならない。その事実がこの帰国を憂鬱にしている原因でもある。

私のロンドン生活は、その前の冬の花火。

この時にこの本が来た。

本は必ず必要な時に向こうから自分のところへやってくる。今回もまたそう思った。

 

 

 

今日、半年暮らした部屋を出る。

 

最初にAmyのところから拾われて日本人のフラットメイトの家へ移る時、そのフラットからここへ引っ越す時には無かった感傷が自分を包むのは、もちろん11ヶ月のロンドン生活がこの引っ越しと共に終わるからである。

最初の半年は人生と同じように前ばかりを向いて楽しいばかりだったのに、ここへ移ってからの半年は段々短くなっていく先の時間を意識して、意欲がどんどん薄れていくのを感じていた。

そう、ロンドン生活で、人生の折り返し地点を、とりもなおさず強く感じることとなったのは仕方の無いことなんだろう。

だからこの町には特にいろんな思いが染み付いている。

だんだん冬に向かっていく季節の中では珍しい天気の良い日は、朝焼けと夕焼けが美しい町であった。

 

一人で居る時間も多くあったので、お気に入りのものを並べ立てたり、好き勝手な料理も楽しんだ。

 

 

そこここに美しいイギリスの風景がある界隈であった。

日本に居るとお手伝いさん任せであまりしなかった食料品の買い出しや掃除も、我ながらまめにやったと思う。

飽かず眺めたチェルシーブリッジ。

 

 

11ヶ月で考えたことは通っていた語学学校のことより、自分は何者なのか、自分にとって家族とは、友人とは何なのか、これから自分は何をすべきなのかという人生の決算についてだった。

それは日本で自分を取り囲む周囲を離れてみないと、やはり分からなかったことなのだと思う。

 

 

Bathからの帰り道の界隈は、殊更に美しい黄昏を私にプレゼントしてくれた。

 

 

ロンドンでお世話になった人たち、友人たちには心から感謝したい。

私を解き放つことを許してくれた家族とクリニックのスタッフに、そして私をちょっとの間居候させてくれたロンドンに、胸一杯の大きなハグを。

さようなら、ロンドン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Helsinki、今さらヘルシンキ!

フィンランド8日間滞在の間、犬ぞりのサーリセルカから空路ヘルシンキへ戻ったあと、ユヴァスキュラに一泊で出掛けたりしながらヘルシンキ市内を楽しんでいた。

フィンランドから帰って二週間で慌ただしく学校を終え、パリに旅立ったので、なかなか盛り沢山だったフィンランドを全部書き切れなかった。

 

 

 

 

 

フィンランドの南端に位置するヘルシンキは、我々が北欧と聞いて想像する厳しい冬とはかなり違う表情を見せる。最北端に近いサーリセルカとはもちろん、中央のユヴァスキュラとも違ってどこかレトロなゆっくりした町並みである。

 

ヘルシンキでは教会をいくつか観たり、アアルトのスタジオ&自邸の見学ツァーに参加したりして建築三昧の日々を過ごした。

 

 

フィンランドの教会はモダンで、作り手の意欲がそのまま自由に表現されているのに強く惹かれる。

 

ヨーロッパ諸国のロマネスクやゴシック、ルネサンスのそれぞれの様式に法った教会は、それはそれで壮大で豪奢で見る者を感動させるが、独立後100年のフィンランドの信仰の象徴は、ルター派という比較的自由な宗派の影響もあってか時代や宗教教示の縛りを受けず、建築家の発想がすべてである。

 

 

フィンランドで最も美しいと称えられる光の教会、ミュールマキ教会 (Myymaen kirkko)。

市内中心部から国際空港に向けて走る近郊列車の高架線と道路に挟まれた細長い敷地に建つ、1984年完成の教会である。

建築家でありピアニストでもあったユハ・レイヴィスカ(Juha Leiviska)の、幾重にも重ねられたランプとテキスタイルの組み合わせは、左右対称という古典様式に囚われない絶妙のバランスの上に成り立っている。

天井や横壁のスリットから入る自然光を浴びてなお印象的なペンダントライトの芸術は、やはりどこかアアルトの照明を彷彿とさせる。

 

 

1968年完成のカンネルマキ教会(Kannelemaen kirkko)は、コンクリート打ちっ放しの4枚の大きな三角形壁がとびきり印象的な、ベッドタウン地区の丘に建つ教会だ。

周囲に日本で言えば公団住宅のようなアパートが立ち並ぶ地域のいわば公民館のような役割も果たすこの教会は、ちょっと安藤忠雄風。

裾がちょっと捻れてめくれているような四角錐の一面一面が、大胆でとても素敵だ。

建築家はMartti and Marjatta Jaatinen(フィンランド語、難しくて読めない・・・)。

 

 

テンペリアウキオ教会 (Temppeliaukion kirkko)は、ヘルシンキ市内中心部の氷河期の岩盤をくり抜いて作られた1968年完成の有名な教会。

岩盤の上に建てるのではなく、くり抜くって発想すごいなと思う。

そしてその空間は発想と同じにとても迫力がある。

第二次世界大戦より前に計画はあったが大戦勃発で中断、戦後改めてのコンペで優勝したスオマライネン兄弟 (Tuomo/Timo Suomalainen)のデザインに沿って建設が始まるも経済縮小ムードで反対運動、予算を大幅に削られたりしながら困難の末に完成したという。

夕暮れに訪れたので、天井のガラス窓から降り注ぐという自然光の効果は十分に体験出来ず、残念。

周囲を天然の岩盤で囲まれた円形の空間は音響効果が素晴らしく、しばしばライブ演奏が行われる。独立100年の記念日を翌日に控えて、ちょうどピアノリサイタルのリハ中。

 

 

テンペリアウキオ教会から歩いて5分ほどの中央バスターミナル広場にちょこんと建っているカンピ礼拝堂(Kampin kappeli)。

建築設計事務所K2S(主任設計者:Mikko Summanen)により、2012年完成。

礼拝堂なので司祭等は執り行われず、市民の祈りの場として解放されている。

窓が一切無いシェルターのような小さな空間は、閉所が苦手な自分にはちょっと落ち着かない。

 

 

市内の目抜き通りをゴトゴト言いながら走るトラムに乗って、アアルトのスタジオと自邸を観に行く。

トラムのある街並みはどこか懐かしくて穏やかで、とても好きだ。

 

ヘルシンキはバルト海に面して大陸の南端と周囲のいくつもの小島から成り立っており、トラムの4番線は、市内中央とスタジオのある島を大きな橋を渡って繋げていく。

巨匠アアルトのスタジオは、夏はさぞかし楽しげで美しいだろうと思われる海へなだらかに落ちていく坂の高級住宅地の中に、溶け込むように建っている。

坂の傾斜に抗うような勾配の天井がいかにもアアルト。

 

 

 

手前にある(写真では見えない)白い壁に室内から映写機で映像を投げかけると、夏はこの中庭に腰を下ろしてそれを映画のように眺めることが出来るという。

 

スタジオから5〜6分住宅街を歩くと、これまた海への松林を臨む坂の途中に自邸がある。

照明、家具からスイッチ一つからデザインしたというこだわりをぎゅっと詰め込んだような、一見シンプルに見えるがディティールの宝庫のような住宅である。

アアルトの出世作ともなった結核患者のためのパイミオのサナトリム(Paimio Sanatorium)のためにデザインした洗面台は、自邸にも使われている。

外国の洗面台で一番困るのは、日本人にとっての異常な高さ。顔を洗うたびに腕を伝って水が床に滴り落ちる。特に最近はお洒落にシンクも浅くなっているのでなおさらだ。ちょっと不格好だが、これは車椅子の患者さんでも容易に使える安心のカタチ。

いかにもな威圧感が無く、美しくシンプルな価値の高い室礼。まさに北欧デザインの先駆者だ。これからの我が人生もこうありたいと思わせる。

 

 

フィンランド最後の夜は一人でふらりとヘルシンキ散歩しながら何か食べようとホテルを出て500mくらいで、この筆文字を見つけてしまう。散歩する前にご飯である。

もう、ビーツとニシン以外の醤油味のものなら何だっていいって気になっていたので、回転寿しでもいいと思って飛び込む。

回転はしていないがブッフェスタイルで、巻物が半分以上。油揚げが寿司ネタとしてご飯の上に乗っているのを初めて見る。

それでも、ああ、甘いソースがかかっていない料理にようやくありつけた、ありがたや。思えばロンドンから飛んできてサーリセルカへの乗り継ぎの合間にVantaa空港でパック入りの寿司を食べて以来の醤油味である。

ロンドンのファストフード寿司の悪口言ってごめんなさいである。ファストフードだからこそこのヘルシンキでも醤油味に出会えるのだ。

 

 

行きは乗り継ぎ時間の都合上、エアラインはNorwegianであったが、帰りはBAを奮発する。

ヴァンター空港のラウンジは、Artec、Marimekko、Iittala、Arabiaとフィンランドデザインのショーケースのようだ。

 

飛行機の座席に身を沈めた時、心地良くくったりと疲れている自分に気付く。

 

ロンドンに来て10ヶ月。

生活が落ち着いてきた頃から、出来るだけ旅をしようと決めて、思いつく限り、自分で手配出来る限りの旅を一人でしてきた。

その中で今回のフィンランドは一番の冒険だったと思う。

手探りでいつも出掛けるけれど、世界って(インドを除けば)意外にきちんと予定通りに一人で移動出来るものだなあというのが実感である。

 

 

空からテムズ川を見た時、ああ「帰ってきた」と思った自分を、くすりと笑っている自分がどこかに居る。