Canterbury、カンタベリー物語

「カンタベリー物語」は、14世紀のイングランドの詩人ジェフリー・チョーサーによる中英語期の代表的な作品である。

英語の歴史は大きく古英語(450~1100)、中英語(1100~1500)、近代英語(1500~)に分けられる。ちなみにシェイクスピアは初期近代英語である。

まあ、こんな解説はどうでもいいのである。

どっちみち自分は現代語の日本語訳を読むのだから、原文がなんであろうと構わないわけだが、夏目漱石ですら読めなかった中英語を完訳した訳者への評価が、この本に関しては(内容よりも!)高いと聞く。

。。。というのは、600年前にこのクオリティとは素晴らしすぎるとのレビューも行き交う中、私には何をどう読んでも、この物語は中世の居酒屋で酔っぱらいが交わし合う与太話集、しかも延々厚い文庫本三巻に渉る分量のそれにしか思えなかったのである。

もしも原文で読めて、中英語の魅力を読み取れるようであれば、また違う価値や意味が見いだせるものなのかも知れない。こういう時に、先に挙げた翻訳物とオリジナルの距離が果てしなく思えるのである。

ロンドンのとある旅人宿に集まった29人が、カソリック(ヘンリー8世の離婚問題でローマ教会と決別してからは英国国教)の総本山であるカンタベリー大聖堂に巡礼の旅に出るにあたり、宿の主人の発案で、退屈でハードな旅路を少しでも楽しいものにするために、其々が二つずつの面白い話しをすることになる。仕事も身分も違う人々がこれだけ一同に集まれるのは、当時はこのような機会しか無かったのだろうし、よってそれぞれの話はかなりバラエティには富んではいるが、相互に全く脈絡の無い29人×2の話がとにかく延々三巻分続く、ただそれだけである。半分以上の話は男女の色恋沙汰で、しかも身分がそれほど高くない輩が話すとそれはかなり品が無いレベルにはなり、げんなりする。読み終わっても、自分が徒歩でカンタベリー詣でをしたような徒労感が残るばかりである。ロンドンからカンタベリー、どんだけ遠いんだよって話しである。

 

 

現在、セントパンクラスからサウスイースタンに乗れば、ダイレクトで54分でカンタベリー・ウェスト駅に着く。バースの女房の話なんか、片方ですら終わらないだろう。

現代のカンタベリー詣でを試みたのは、滞在中続いた不安定なイギリスの春の天候がちょっと落ち着いた日曜であった。

ロンドンからトレインで行く日帰り旅には、本当にちょうどいい天気と距離である。

チューダー様式の中世の町並みは、まさにカンタベリー物語当時の面影をそのまま湛えて長閑である。

さほど大きくない町の1/5の面積を占めると言われる英国最初のゴシック建築は、巨大で複雑なリブ・ヴォールトで構成され、見事である。

ロンドンから徒歩あるいは馬上の人となって何日もかけてここへ到達した人々は、その信心をどんなに厚くしたことだろう。

12〜16世紀にかけて再建をし続けた石積みの巨大な建造物は、無数の足場に囲まれて修復を繰り返し(多分ぐるりと修復して一周するころには、最初の修復部分が崩れ始めているという長周期のエンドレスな作業かも)今も巡礼者を迎え入れる体裁をかろうじて保っているように見える。伊勢神宮の20年ごとの式年遷宮と対比させれば、日本との風土や建築への考え方の違いが透けて見えそうだ。

不信心な旅行者は、石畳の床から上がってくる冷気にすっかり体温を奪われ、トリップアドバイザーが勧めるスコッチエッグで代謝を上げるほうに走ってしまう。

スコッチエッグなんて何十年かぶりに食べたけど、まあ、美味しいこと。

現代のカンタベリー詣で、数時間で終了である。

 

 

ロンドンからの日帰り旅は、以前にも週末毎にした。トレインや車で2時間以内ならそれは余裕で叶う。新幹線で行くわけではないから、日本で考える2時間圏内よりももっと狭い範囲にはなろう。ロンドン⇄カンタベリー間はわずか98kmである。その後に看護師長たちを連れて行ったコッツウォルズ、バイブリーまでは300km弱である。

大都市ロンドンの喧噪を抜けるとあっという間に広がっていくこの風景。

日本と同じ島国で日本の2/3しかない国土面積の中に、イギリスの風景は自然と共存し、歴史を国土という箱庭に閉じ込めてサステナブルに存在している。

 

ロンドンとエディンバラは約500kmで、東京⇄大阪間とほぼ同じだが、昨夜NHKの「ヴィクトリア2」で、若い女王が馬車でひたすら荒野の中の一本道をスコットランドに向けて行幸(というのか)する場面があり、前の滞在中に自分が訪ねた時はユーストン駅からナイトトレインでウェーバリー駅まで7時間だったことを思い出した。

交通機関の発達で小さくなった国土。

98kmの距離を、えげつない話、泣ける話をしながらあーでもない、こーでもないとわめき、騒ぎ合いながら人々が歩いた長い長い道を思う。その日々の色彩を思う。

しかし、その劇的な移動手段と価値観の変化の中にも、例えばあの大聖堂のように当時と変わらないもの、中世にあった石積みそのものを、私も今観ることが出来るという不思議さをイギリスではいつも感じる。

 

スピードと対極にある沈黙。

不思議なマッチングだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

London、ブックショップ・ラヴァー

遅ればせながら、続・英国旅行記。

 

 

義母の葬儀を終えて、ロンドンに舞い戻る。

 

義母逝去の報は、ロンドンに着いた翌日、デヴォンへ向かうトレインの中で夫から受け取った。夫は帰らなくていいと言ったけど、デヴォンでの日程を切り上げ、GW真っただ中のノーマルチケットを買って一時帰国。通夜と葬儀に出席して、まだ2週間以上あるロンドンでの旅程を消化しに再渡英となった。

1週間前と同便の同じ機内食を食べるのは御免だったので、羽田のラウンジで寿司折りを買って、機上のディナーとする。

 

 

23歳で夫と結婚した時、義母はまだ40代だった。20数年前に義父が亡くなってからも美しく、誇り高く、見苦しいところを決して見せず、そして86歳でアルコール性肝硬変とは、是非とも見習いたいあっぱれな酒とバラの人生であったと私は思う。

私が1年間の留学生活に出発する時も、息子をほったらかして渡英する嫁にいろいろ文句はあったのだろうが、何も言わずに送り出してくれた。今回ひっそりとそれに報復するように、もの言わぬ身となって私をロンドンから引き戻したようだ。

 

キングスクロス駅近くの部屋にほとんどの荷物を残したままの一時帰国。その後は、開業当初から勤務してくれた二人の看護師長たちが慰労旅行に来るまで、1年間暮らした懐かしいロンドンを私一人で楽しむ時間だ。

 

街を歩けば、もうショーウィンドウのディスプレイからお気に入りの紅茶の売り場から、全てが懐かしい。

とりわけブックショップ巡りは、1年前の滞在中から、私の町歩きの最大の楽しみだった。

 

ロンドンの地下鉄に乗ると、あごひげを綺麗に揃えた紳士が、布製のショッピングバッグから分厚い本をおもむろに取り出して読み始める、そんな光景によく出会う。バッグのロゴで、その人がどの本屋さんがご贔屓なのか、そのブックショップ名からどんな傾向の本を好むのか、ひいてはどういうバックグラウンドを持っているのかさえ想像できたりする。

ロンドンの地下鉄は有料のアプリを入れないと基本的に携帯の電波が入らないという事情もあるが、東京の地下鉄のように、老いも若きも一様にスマホ画面を凝視しているような光景は見られない。

 

 

イギリス人の本好きは有名である。

ピカデリーにあるロンドン最古のブックショップHatchardsに専門の発注請け負い係もいるという女王陛下は、本好き国民の筆頭である。

 

シェイクスピアを挙げるまでもなく、世界的に有名な作家を多く輩出しているお国柄もあろうが、そこにはとりもなおさず英語という言語の強みがある。英国の本が各国の言語で翻訳出版される数は、2位のフランスをダントツで離して1位。逆に海外の文学が英語に翻訳されて国内で出版されるのは国内書籍数全体のたった2〜3%というから、日本でいつも私が翻訳物を読むたびに感じる原語版への距離感などはほとんどの人が感じないということだ。

近年電子書籍が登場して、イギリスでも紙媒体の書籍の売り上げが落ちた時期もあったというが、1990年以降、Daunt Booksを始めとする個性溢れる美しい個々のブックショップがハイストリートに数多く店を構え、その努力によって、現在は圧倒的に紙媒体の書籍を求める購買者が多いという。

 

 

イギリスの書籍出版の3割は児童書である。

ファンタジーの発祥国でもあり、児童文学研究の聖地でもある(一応大学で児童文学を専攻したヒト)イギリスでは、児童書は未来の読者(ひいては購買者)を育てる大事な種まきのツールである。

よってブックショップでも児童書売り場はとりわけ可愛らしく、夢があり、子ども達が自由に本を手に取って読める工夫が凝らしてあるのが普通である。

とりわけ、最大のギフトシーズン、クリスマスのブックショップは一日中いられるくらい、美しくて居心地がよい。

 

またLondon Meet Upを覗いてみると、市中にはものすごい数のブッククラブがあり、読後のレビュー討論も活発に行われていることが分かる。

そう、刑務所の中ですら。

 

ポートベローマーケットの中の小さなブックショップが恋人の出会いの場となる「ノッティングヒルの恋人」では、ヒュー・グラント扮する店主が万引き男にまでユーモアのある対応をしたり、ヒロインにコアな旅行本を勧めたりする。イギリスのブックセラー達は押し並べて本に詳しく愛想がよく、本を売る仕事に誇りを持っているように感じられる。もちろんハタキを持って、立ち読みしている客を追い出したりなんかしない。カスタマーはいろんなことを質問しながらブックセラーとのおしゃべりを楽しんでいる。

イギリスらしいジョークの利いた会話を集めたこんな本もあって、読んでいるととても楽しい。

 

 

 

 

ロンドンのブックショップ。

 

本をただ売るのではなく、紙の媒体の魅力を最大に引出そうとするその姿勢を評価したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Devonshire、若葉の頃

 

「First of May (若葉の頃)」は、私たちの世代が子どもの頃流行りに流行った『小さな恋のメロディ』の挿入歌である。

ストーリー仕立てがどこか稚拙なあの映画になぜあんなにも恋い焦がれたのかというと、輝くような金髪とギンガムチェックの二人のバックに映るロンドンの町並みや新緑の木立のきらめきが、まだ見ぬイギリスという国の豊かさや美しさを、東洋の片隅に生きている中学生に鮮明に植え付けたことが大きい(と思う。今思えば、当時の英国の優秀ロックバンドを惜しみなく投入したサウンドトラックが贅沢)

First of Mayよりちょっぴり早い4月の中旬、自宅処分&転居という大仕事を終えて、一人ヒースロー行きBAのキャビンのシートに身を沈めた時、私の頭の中はこの曲でいっぱいだった。

3週間の滞在。10連休も令和も8時間時差の向こうから傍観してやる。そんなつもりだったが、結果的にそのど真中へまた舞い戻ることになろうとは、その時想像だにしなかった、もちろん。

 

 

イギリスは田舎がいい。

ロンドン市内はそれはそれで楽しいのだけれど、イギリスの本当の魅力は、ロンドンから東西南北に放射状に広がっていくトレインに揺られ到達していく地方の小さな町や村にある。

山が少ないイギリスの国土を走るトレインは、ロンドンの喧噪を抜けて10分もすると、目の前に広がるなだらかな牧草に覆われた丘陵地帯の間を駆け抜けるようになる。これは、キングスクロスから北に向かっても、パディントンから西へ向かっても、ウォータールーから南に向かってもだいたい同じだ。

そしてそこでのんびり草を食むのは、毛織物工業が盛んなヨークシャー地方ならば羊で、乳製品の名産地デヴォンシャーならジャージー牛だ。

こういう景色をぼんやり眺めて普通2〜3時間、最大4時間も走ると、スコットランド以北は別として、だいたいブリテン島のどんな町にも行くことが出来る。それぞれの地方の末端路線は、メンテナンスを兼ねて走らせている蒸気機関車だったりもするので、鉄道の国イギリスのトレインの旅は本当に楽しい。

 

 

 

ロンドンに到着し、Airbnbで予約しておいたキングスクロス駅近くの部屋に入り、それすらも懐かしいお持ち帰りITSUのサーモン寿司を食べて寝た翌朝、既に私はイギリスの新緑を見に、パディントン駅から出るGreat Westernの車中に居た。

行き先はデヴォン地方の玄関口Exeter駅。

今回の田舎巡りは、やっぱりこの地方でしか食べられないクリームティー(スコーンとクロテッドクリーム、ジャムとティーのセット)食べ歩きの誘惑に負けて、乳製品の名産地デヴォン地方とする。その先の大好きなコーンウォールまでは日程の関係で足を延ばせなかった。

マークアップは今回の立ち寄り地。

お食事があまり美味しくないと言われているイギリスで、絶対日本で食べられない美味しいものと言われたら、私は真っ先にこの地方のクロテッドクリームを推す。毎朝配達されるフレッシュな粘り気のあるクロテッドクリームは、日本でどころかロンドンでも滅多にお目にかかれない。運送距離がものを言う鮮度競争なのだ。

前回の滞在中にもコーンウォールとデヴォンのティールームを9軒食べ荒らしたが、デヴォンに限定した今回も3日で5軒のクリームティーを。

Old Forge Tea Room(Newton Abbot)

 

The Cottage Tea Rooms(Clovelly)

 

Periwinkle Cottage(Minehead)

 

The Tudor Rose Tearooms and Garden(Plymouth)

 

Anne of Cleves Tearoom(Totnes)

 

ちなみに日本の友達にはどっちでもいい話しと切り捨てられるが、しつこく言うと、クロテッドクリームの上にジャムを乗せるのがデヴォン式、お隣のコーンウォールではクロテッドとジャムの上下が逆になる。

現地では非常に重要な問題なのである。

 

 

そして私のFirst of May。

時折雨のぱらつくイギリスらしい天気に終始したが、湿度が若葉の色をより引き立たせる。

気候のせいか、樹木の種類の差なのか、秋の紅葉は日本のそれに軍配を上げたいが、新緑はイギリスのこの一斉に芽吹く感じと、自然に見えて手入れと計算のしつくされた花々とのコントラストが素晴らしい。

愛らしいブルーベルは、イギリスの春を告げる花だ。

 

 

コッツウォルズなどと共に観光地として、行政あるいはナショナルトラスト等非営利団体の管理下にある地方に行って感動するのは、トレッキング用の獣道のようなフットパスと、この津々浦々に行き渡る緑の側壁である。

車一台やっと通れるような誰も通らない細い田舎道に至るまで、無粋な柵や塀を排除し、徹底的に景観に配慮した手入れに脱帽する。

 

投宿はHotel Endsleigh(Milton Abbot)

ホテルマネージャーの髭アクセサリー最高。

かなり辺鄙なところにある美しく広大な領地を持つマナーハウスで、日本人の宿泊者は私が二人目だそうだ。

ホテルで飲んだイギリス産白ワインがとても美味だったので、すぐ近くだというワイナリーも訪ねる。

Sharpham Vineyard(Totnes)

気候変動で、これまで不可能と言われていたイギリス産ワインも最近は多く、特に国内では比較的気温が低過ぎないデヴォン、コーンウォールにはいくつかのワイナリーがある。

 

 

 

住めば都、という。

私の場合、もともとこの国が好きだったから本来の意味とは一枚違うけど。

そこで生きていくとなれば、華やかな観光名所からは掬い取れない猥雑な雑踏と孤独、路地裏の奥の表情、人々の温かさ冷たさ、その国での自分の立ち位置、楽しいことばかりでなく辛かったことや大恥の経験もし、そういうものが全部沁み込んで、思い入れに厚みが増すのだろうと思う。

ロンドンのみでなく、地方を歩くようになって、さらにイギリスが愛おしくなり過ぎた。

住めば都過ぎる。

そんな感じだ。

自然を愛する人達のために用意された、自然を愛する行政サービスの下におかれた、自然を愛する人達による厳しさを残した美観は、この国独特の広大な芸術であり財産でもある。

 

それにいつも魅せられ、囚われる。

(ダートムーアの強風に吹かれ、バスカーヴィル家の犬のような髪になる)

 

 

 

 

 

 

 

Kagurazaka、国宝

ベランダに出ていたカントの後を追って、一片の花びらが室内に舞い込んできた。

 

花の季節が終わった。

波が引くように人が去った歩道は、薄紅色のグラデーションである。

この幕を下ろした後のような緊張の解ける時期が、私の一番好きな千鳥ヶ淵である。

 

父に言われ、学生時代に国文科の嗜みとして渋々国立劇場に通ったくらいの不粋者でも、花吹雪の季節には、『祇園祭礼信仰記』四段目「金閣寺」の圧巻の桜吹雪の場面を思い出す。

歌舞伎三姫のうちの一人、雪姫は金閣寺に立てこもる謀反人に捕らえられて俺の女になれと命ぜられるが、決して首を縦に振らない。花びらの降り注ぐ満開の桜の下、絵師雪舟の孫でもあり絵心のある雪姫は、縄で縛られながらつま先で桜の花びらを集めて鼠の絵を描く。するとその鼠が絵を抜け出して雪姫の縄を食い千切ってくれるという奇跡が起こる。なにやら昨今のバンクシーを連想させる。

芸の鬼となって次第に現世から心が乖離し、歌舞伎の桃源郷に駆け上っていく時期の喜久雄は、この「爪先鼠」の場面で一瞬舞台にこの世のものでない何かを見る・・・・

 

「国宝」(吉田修一/朝日新聞出版)

任侠の世界から拾われて図らずも歌舞伎の花形女形役者の家に引き取られることになった喜久雄と、その家の御曹司俊介の絡み合った人生の局面を、歌舞伎の名場面と重ね合わせて描ききった才気の筆の勢いが際立つ力作。二人の出自の設定により、話題の祝辞「どんなに努力しても報われない人がいる」を地でいく世界を暴くのかと思えば、役者の無心の向上心と周囲の人情が理不尽を正道に引き戻し、真っ当なものの強さがすとんと胸に落ちる小気味よいストーリー仕立て。

まるで歌舞伎役者が自分の舞台を客席から眺めているような、人称不明の文体が功を奏して、読み手はまるで二人の人生が芸の演題そのものであるかような錯覚にも陥る。筆者はそれまで歌舞伎に全く興味が無かったと言い、その執筆までの旺盛な取材力にも圧倒される。

歌舞伎はよく西洋のオペラと比較されるが、私は全くの別物だと思う。なぜなら舞台に上がるまでの作り込みは、任侠の世界を思わせる義理と人情を筋道として通す日本独特の世界。表舞台の艶やかさと対比させながら描かれる、その裏に厳然と存在する風習と規律に法った昔気質に触れる瞬間の感動が鮮やかだ。

 

 

 

靖國神社の境内を抜けて牛込橋に向かう早稲田通り、通称幽霊坂をゆるゆると下りて神楽坂へ。

一人ご飯の定番コースになった。

神楽坂の表通りは若者向けの安い居酒屋やファミレスが立ち並ぶが、一歩路地裏に迷い込めば、そこは昔の色町の風情が残るノスタルジックな異次元ワールド。

京都の祇園を思わせる石畳の細かい露地に、料亭ばかりでなくイタリアンの名店やクオリティの高いバーが点在する。

 

その路地裏で何人もの喜久雄や俊介とすれ違う。

江戸時代へ通ずるラビリンスを、本の余韻と共に彷徨い歩くのもまた一興だ。

 

Chidorigafuchi、結婚記念日、「宝島」

平成最後の千鳥ヶ淵の桜は、結婚39年の経(ふ)る年を思いつつ静かに観た。

 

 

1980年3月30日。元号は昭和である。

私の母校の御聖堂で小さな式を挙げただけで、大学を卒業してぷらぷらしていた23歳と、まだ国家試験前医学生の24歳はいきなり社会という大海原に船出してしまった。生活費はどうするのかとか、子どもをいつ作るのかとか、親と同居するのかとか、そんなことは一切考えもしなかった。

39年前のその日、洗いざらしのショートカットの髪に花冠を乗せただけのヴェールを見て、可愛がってくれた叔母が、あまりにも若すぎる・・・と泣き崩れたのだけを鮮明に覚えている。

性格の不一致どころか、共通しているところなど一つも見つからず、多分お互いに39年のうち40回離婚を考えたけどw、何だか社会の一単位として自分たちは成立してしまった以上、それを崩すことは崩さない辛抱よりシンドイだろうという浅い認識だけで継続を選択してきた。

夫が開業し、千鳥ヶ淵に部屋を持つようになってから、その思い出の日が必ずお濠が華やぐ時期のど真中に来るので、毎年桜の短い生涯に、どうしても自分たちの冗長な結婚生活を対比させてしまうのだった。

あまりにも若いと叔母に泣かれた花嫁はすでに額に皺を刻み、スポーツ刈りのテニス部のキャプテンは白髪頭になった。

二人の息子は10年以上前にさっさと独立し、来月には4人目の孫を家譜の中に迎える。

 

 

 

私たちは大学時代の大半を一緒に過ごしてきたので、共通の大学の友人はとても多い。

その中の夫の友人に沖縄から来たMがいた。彼は那覇の大きな宝飾店の御曹司で、私の学友と付き合っていたから、四人でよくご飯を食べたり勉強したりした。

当時沖縄は異国だった。

少なくとも私には。

ちょうど72年の返還直後。それ以前には必要だった本土へのビザがいらなくなったとMは言っていたけど、その言葉はただうっすらと遠くに聞いていた私だった。

39年前の3月30日、叔父のレストランで開いた仲間うちの披露パーティで、いつのまにか新郎の席に座ってふざけていたひょうきんなMに、どんな思いが去来していたのか。

その頃の私は、そういう社会情勢にまで気が回らない、本当にただの子どもだった。

 

「宝島」(真藤順丈/講談社)

 

読書会のテーマ本にでもならなければ、直木賞の本はあまり手に取ることは無い。

近々の芥川賞、直木賞のショービズ化に食傷気味だからなのだが、この本はまず単行本の厚みと沖縄人(ウチナンチュ)言語の羅列に、これまでの直木賞に無い気迫を感じた。

米軍基地から物質を強奪して困窮している島民に分け与える、鼠小僧を彷彿とさせる嘉手納の戦果アギヤーを核として、沖縄が戦中をどう引きずり、どう立ち回り、その戦後、否、戦後の日本政府の対応にどう困惑したか。そして遂にはどう諦観したか。最後の投げかけが壮絶だ。

双方からの莫大な利益と踏みにじられる自尊心の狭間で苦悩する島民を描く本著も、所詮著者が本土人だというところで、いまひとつ、説得力が追いつかない。苦慮したであろう島言葉も大仰すぎる感があり、入り込めない残念さが残る。

国内で唯一戦場と化した沖縄で戦後を生きる島民の闘う相手は、米軍なのか、本土の政府なのか。その三角関係のツケ。

この問いに関しては、本土にしか住んだことの無い人間が何を言っても、そのテーマで直木賞を受賞したとしても、結局は他人事でしかない。著作の内容如何よりも、その立ち位置が全てを語ってしまう史実を直視しなければならない。それを訴えかけた作品だと思う。

力作であろうが、なぜ今この主題だったのかを思う。

 

 

読んでただ、Mを思い出す。

沖縄には帰らず、結婚して田園調布に居を構えたという十数年前のMの便りに、私の浅はかな思いは逡巡する。

 

M、いつかまた一緒に飲みたいよ。

 

 

 

 

fujimino、家終い

20年住んだ家を去る日が来た。

ロンドンで一人超ミニマムな生活を体験した後、夫の退職に伴い、自宅を処分しようと思いついて、ちょうど一年。この勢いに乗らなければ到底完遂できない、大決断でもあった。

 

 

人生で初めて建てた家は、それは誰もがそうであろうが、思い入れをぎゅっとぎゅっと詰め込んだ、自分の血肉のような存在だった。

無機質なコンクリート打ち放しのがっしりした躯体は、私の物心両面の欲求をすべて許容し受け止めてくれ、本当に頼もしかった。

 

 

初夏には狭い内庭にアナベルが咲き乱れ、その季節だけ硬質なコンクリートがえも言われぬたおやかな表情になり、愛おしかった。

 

 

本が好きで本棚のある家に憧れていたので、家の中心はもちろん大きなブックシェルフとなった。

最初到底埋まらないと思っていた本棚がぐんぐん好きな本で埋め尽くされていくのが楽しかったし、その本棚の下のソファに寝転んでまた新しい本の頁をめくる時が何より幸せな時間であった。

 

 

夫婦二人にしては大きな家だったので、家終いは大掛かりな断捨離を決行することとなった。

家具、絵画、衣服や食器を始めとする身の回り品は、こんまりさん風に言えば「ときめく」ごく僅かなものを除き、ほとんど売却か廃棄処分とした。その処分過程はものすごく大変ではあったが、持ち物の量が減っていくに従って気持ちが軽く清々しくなっていく、断捨離の本当の意味を痛感する日々でもあった。

 

逆にどんなに分量が大きかろうと、決して処分出来ないものは、やはり本だった。

 

そして。

今は亡き両親が、ちょうど反抗期であった息子達に毎週送ってきたはがきのメッセージ6年分。

 

まだインターネットの道案内が発達しきらない頃の、一人旅の情報源10年分。

 

写真も含め、アナログな時代を生きてきた記録のほとんどが紙ベースで、その量は膨大だった。

 

家はからっぽになった。

許容量のかなり大きい家だったので、本当に空にできるかどうか不安だったが、何とか新しい持ち主に引き渡すことが出来た。

自分の人生で一番良い時代を、この家が演出し、内包してくれた。

この家にいる限り、私は安全で幸せだった。

 

 

移転先は夏の別荘であった軽井沢に決めた。

これまでの半分以下の小さな家にはもう何も詰め込めないが、とにかく本だけは移動させた。

 

馴染みがあるとはいえ、これまで非日常だった土地で、現役を離れた日常の生活を紡いでいく。

 

 

 

とにかく人生での一つの大きな整理が終わった。

 

 

今はその達成感で満たされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

Mexico、モノトーンを拒否した国


北アメリカ大陸で一番古いワイナリーが、メキシコにあることをご存知だろうか。

初日、そのCasa Madero の赤でスタートしたメキシコ一人旅のご飯事情は楽勝と思えたが、たちまち暗礁に乗り上げた。


タコス(複数形なんだそうだ)にもソパ(スープ)にもサラダ(シーザーサラダの発祥地だそうだ)にもとにかく使われまくる国民食、トルティーヤがダメだった。

炊き上がった白米のしっとりもちもち感に慣れた身に、この乾いた感じとお腹だけが膨れる粉っぽさは堪えた。

実は体調的にはこれまでで一番辛い旅でもあった。

原因不明の目眩に後半悩まされて食欲が無く、大好きなお酒も飲めず、本気で途中帰国を考えたほどだ。

やむなくそれほど多くはない日本食を見つけて食べ、あとは電気ケトルを借りて、持参したカップうどんで凌いだ。

グアナファトのデリカミツ、お世話になりました。

驚くほど英語が通じなかったが、緊急避難的に成田で買ったスペイン語ガイドは、カップうどんのフタにのみ役立ったカタチ。

一人旅の場合、特に治安に不安のある国では夜出歩けないため、現地ガイドさんでもうまく夕ご飯に引っ張り込めなければ、まあ、こんなものかルームサービスが関の山だからそれはいいのだが。

 

 

大好きなお酒が飲めなくて旅の醍醐味の半分が失われ、失意の目眩に苦しむその目に飛び込んできて元気を与え続けてくれたのは、メキシコを旅して最も圧倒された、バラガンの建築にも見る「色」だ。

彼に色を使うことを恐れさせなかった土壌が、確実にそこにあると感じる。

家一棟、壁一面(しかも馬の目線スケールの)という大きな表面積を、あの強い原色で一面塗るのは、建築家として相当大きな色へのモチベーションが無いと出来ないと私は思う。

 

メキシコシティから不安をいっぱい抱えて、チルド室のように冷え冷えの長距離バスに乗り約6時間。

 

グアナファトというコロニアル都市に着いて町並みを見た時に、そのモチベーションの原動力を見た気がした。

そう。

家一軒、原色で塗るのは、ここでは当たり前。

唯一、塗ることを禁じられているのは黒。

18世紀世界の1/3の銀を産出し、その鉱山ブームでもたらされた富が、このメキシコで一番美しいユネスコ世界遺産の町を作り上げたという。

丘陵一面を覆い尽くすカラフルな家々は、町中からはどの建物の隙間からも垣間見ることが出来るし、メキシコ独立史の英雄ピピラの像が建つ丘へケーブルカーで登って町を見下ろすと、それはまるで宝石箱をひっくり返したような風景として眼下180度に広がる。

 

溢れる色彩の中で、やはり一番目を引かれるのはピンクだ。

 

 

日本人が、四季の遷ろう気象条件やほの暗い行灯の明かりの下に繊細な何百色もの伝統色を生み出したように、強烈な太陽、乾いた気候、そして300年という長いスペイン統治文化から、メキシコの人たちの肌に沁み込んだ色彩というものが厳然とある。概して淡いトーンや墨のモノトーンを好む日本の感覚とは対極にあるような、そのパッションに満ちた色たちは、他国に支配され続けた決して豊かとは言えない国土と湿り気の無い厳しい気象条件に真っ向から立ち向かっているようだ。

 

グアナファトからさらに南下し、メキシコの最南端のカンクンまで行くと、今度は自然の色に心を奪われた。

赤道にかなり近いカリブ海沿岸のこの地は高温多湿、その湿った空気が創り出す色が、また濃い。

 

 

 

 

強い日の光の中で際立つ独特の色彩を放つメキシコの町々にも、夕闇の帳は全世界共通のモノトーンを連れてくる。

色が無くなった時、メキシコがようやく安息の息遣いをし始めるように思うのは、目眩に苦しんだ私の錯覚だったのだろうか。

 

Mexico、色を使うことを恐れなかった建築家

松の内に日本を飛び立つ。

 

久しぶりの一人旅である。

極東の島国にいると、本当に出無精になる。

どの国に行くにも遠すぎる。周辺に2、3時間で行ける国がひしめき合っているヨーロッパとは大違い、週末休みだけで海外旅行が出来たロンドン時代が懐かしい。

その中でも一番遠く感じるのが中南米である。

いざ行かんとして情報収集にかかるも、アジアやヨーロッパに比べるとイマイチ痒いところに手が届かない気がする。

夫が職場復帰し、やれやれと肩の荷を下ろした9月頃から、新年早々のパナマ運河辺りの中米旅行を画策し始めるも、当る現地手配会社ことごとくいい加減、ようやく一社だけ実際のプランまで漕ぎ着けた中南米手配専門会社、◯ンリーワントラベルも、出発便日程の一ヶ月前になって急に担当者と音信不通。往復飛行機のチケットは既に買ってしまっている以上反古にするわけにはいかず、大幅にチャレンジ路線を入れ替えて、自分で手配出来る程度のメキシコ一国国内行脚と相成った。

一人でメキシコへ行くと言ったら、9割の知人が危なすぎると言い、残る一割はメキシコに何をしに行くのかと問うた。

主なエイムスは、1980年プリツカー受賞のルイス・バラガンの建築をメキシコシティで見ることだったが、それ以外は自分でも何をしたいのかがよく分からなかった。メキシコと言ったらマヤ文明遺跡と相場は決まっているが、遺跡関係今ひとつ疎く興味そそられず。高山縦断鉄道やキューバ立ち寄りといったチャレンジ区間を取り除いたが(キューバは、アメリカとの国交回復以前にも一度計画して頓挫したので、よっぽど縁の無い国なんだろうと思う)、行き帰りの航空チケットは変更が利かないため二週間という滞在期間はフィックス、バラガンだけでは不必要なロングステイになってしまった。

いいや、でもとりあえず行こう、と飛んだ。

 

そして真っ先に見たバラガンは、なんだかパワフルとしか言いようの無い風景だった。

バラガンの建築物はメキシコシティ周辺に集まっているので、一日で主なものを全て観て回る弾丸ツァーなどもあるが、ここはキモなので、個人のガイドを雇って、数日の時間をかけた。

こっくりとしたピンクの大壁が強烈な印象を放つサンクリストバルの厩舎(1968)は、メキシコシティ中心部から車で約1時間ほど走った郊外のゲイテッドコミュニティの中にある、大富豪エゲルシュトリーム家所有の現役厩舎兼住居だ。ヴィトンや福山雅治のキューピーのCFでお馴染みの向きも多いかも知れない。

対象物をフレームに入れないと分からない不思議な大きさは、一説によると馬の目によるスケールで作られたそうで、まるで自分が縮んだアリスのような感覚だ。

 

所有者宅の数匹の大人しい飼い犬は、慣れた風情でゆったりと敷地内を散歩。

淡い色彩の多いアジアには見られない強烈なピンクが、こってりとコバルトの絵の具を塗りたくったようなメキシコの空に、どうしようもなく似合う。

 

竣工年代は前後するが、このサンクリストバルの厩舎から受け取るバラガンのイメージのうち、スケールという点では、市街北部のモニュメント、サテリテ・タワー(1958)が繋がっていく。

同じ建造物なのに、見る場所によって全く違う形に見える角度の付け方が絶妙。

 

そしてバラガンと聞いて真っ先に思い浮かべる強烈なピンクは、個人の住宅ながら見学に開放されているヒラルディ邸(1978)と、世界遺産でもある自邸とスタジオ(1948)に如何なく吐露されている。

ヒラルディ邸で一番感動したのは、強烈な色もさることながら、室内プールに落ちる鋭いビームのような光が、人口照明ではなく、影を作る壁を計算して(多分)ずらすことで、外からの自然光を細く中に投影させたものであるという点だ。

40年ガイドをしているというタナカさんも初めてこんなに綺麗に光が出たのを見たと言っていた、ラッキーな瞬間。

サンクリストバルの厩舎では金髪の美しいマダムが、このヒラルディ邸では息子さんが出てきて、受け入れた見学者への説明を行う。実際に住んでいる家へ、予約制とはいえ毎日多くの見学者を受け入れることは本当に大変だろう(しかもどちらも見学料金で生計を立てなくてよさそうなお金持ちだ)。

 

年末年始の繁忙期にあたり、最後まで見学予約が取れなくてやきもきしたバラガン自邸は、建築家の学生が設計図を持って見学しても迷うと言う、空間的に非常にトリッキーな建物だ。

計算され尽くした3D。

20年前の大学生時代にここへ到達している駆け出し建築家の次男に言わせれば、あの空間のセンスが分からないとはなんて悲しい…そうだが、私はやはり要所要所に配されたピンクの強度に、より圧倒された。

プリツカー賞のトロフィーが、スタジオの隅の床に無造作に放り出されていたのが、何だかメキシコらしくて笑えた。

 

 

居住空間として最も落ち着けると感じたプリエト・ロペス邸(1950)はもう少し淡いピンクが使われており、子ども達のさんざめきが聞こえそうな平和な時間の流れを演出している。

 

 

 

「色を使うことを恐れなかった7人の建築家」

https://www.archdaily.com/881169/7-architects-who-werent-afraid-to-use-color

バラガンがそのうちの一人であることは間違い無い。

 

 

 

 

 

 

Fujimino、細雪、ドグラ・マグラ

軽井沢には一気に冬が来た。

 

それに比べ、東京の冬の歩みはなんと緩慢なことか。

 

今年のふじみ野の自宅には、特別な冬が来た。

ロンドンにいた去年を除いて毎年ご近所さんと開いてきたクリスマスパーティも、今年で最後となる。

 

 

一人でロンドンにいる時、帰国してからの生活を何度も何度もシュミレーションした。夫の引退が2年後に決まっていたので、その後の人生を何が何でも考えないわけにはいかなかったのだ。

自宅を売ろうという考えは、その時に何だか唐突に浮かんだ。

都内と軽井沢を含めた三ヶ所の居住スペースを維持していく経済力と管理能力が、年金生活となる今後続くとは到底思えなかったからだ。

そして帰国後、すぐに売却の用意にとりかかった。

ロンドンから帰ったばかりのこの弾みを利用しなければ、この大仕事に着手する機会は永遠に失われそうな焦りがあった。

夫は反対もしない代わり、手伝いもしようとはしないので、一人で業者と会い、価格を決め、何人もの購入希望者を内見に受け入れて、買い手が決まっていった。

そう言えば、この家を建てる時も一人だったなと思い出した。

土地を決め、銀行と融資の相談をし、施工業者とデザインを組み立て、コンクリート打設に立ち会い、マテリアルを選び、家具を決め、絵を買い・・・竣工してからの今までの約20年もメンテナンスと手入れに心血を注いできた家だった。

こうやって愛おしんできた家を他人の手に引き渡す感傷はここで言うまい。

コンクリート打ち放しの無機質な鷹揚さは、かつてはその質感と空間の豊かさで自分を虜にしたものだったが、息子達が巣立ち、夫婦二人になり、老境の入り口に立った時、維持する体力に不安を覚えるほどの量感となって自分に迫ってきた。

家という容れ物は、刻々と変わっていく家族の形態を、どこまでどのようにして受け入れ、自らを変容させられるものだろうか。

 

 

船場の若草物語は、大戦直前の不安な時代にありながらもなお、大きな財力の下に、花びらがこぼれ落ちるような美しい日常に明け暮れる四人姉妹の生活を余すところなく描き切った耽美主義の大作である。

「細雪」(谷崎潤一郎/新潮文庫)

四人姉妹の長女鶴子は、婿を取り、両親亡き後の船場の実家を引き継いで、まだ嫁に出ない下二人の妹を世話しつつ華やかな生活を楽しむが、夫の転勤により、本宅を東京に移す。東京の出来合のしもた屋の粗末さ、狭さは、常時彼女や共に住まねばならない未婚の妹達の不満の槍玉に上がる。

かつて四姉妹とその両親を包括してきた豪奢な船場の商家は人手に渡るが、彼女たちの胸には幾度となく、当時の隆盛の象徴のように家の構えへの想いが去来する。

美しいものをこよなく愛した谷崎の迸るような筆致で分量豊かに描かれる、四季の風景に映える着飾った四姉妹。そして開戦時の緊迫もそれぞれの人生の波乱すらも飲み込む、豊穣で優雅な彼女たちの生活の描写は、日本の耽美主義の存在価値を誇示して余りある。

ユイスマンスの「さかしま」を彷彿とさせる、豊穣な物質文化へのオマージュがこの作品にも読み取れる。

いかなる伴侶と結びつくかが当時の職を持たない上流の婦女子全ての人生をかけた命題であり、三女雪子の見合い事情が軸となって進むストーリーの、美しい時代錯誤の中を彷徨い歩きたい作品だ。

 

 

2018年最後の読書会のテーマは、180度転回して、グロテスクな錯乱の世界へ読み手を誘う奇書へ。

このギャップはキツいが、 それも読書生活の一種の醍醐味ではある。

「ドグラ・マグラ」(夢野久作/角川文庫)

精神病理研究者と法医学者の変質的な実験が、自分は誰なのか見失った精神乖離症(らしい)主人公の目で語られるため、読み手は始終正誤を攪乱され続ける。

前半読み手が付き合わされる、無用に難解で狂信的な文献や遺言書の類は単純に著者の嗜好の範囲であろうが、後半、数々の事件の核となる(らしい)教授の解説が始まると一気に推理小説めいて、首謀者や主人公の正体など難解な文脈を読み進む唯一のモチベーションとなってきたものが判明しそうになり、思わず身を乗り出す。

しかし結局は倒錯の世界へ突き放され、独特の結末に辿り着いて呆然とする。奇書か駄書か、判別がつかない。

著者が10年の歳月をかけて推敲に推敲を重ねて後付けをしていったというから、本筋がとうの昔に膨大な思想と文章の奥に隠れてしまい、それを探り当てんとして森に彷徨い混んでいる読者は、二転三転する事実らしきものの認識に翻弄される。

本著の核となる呪いの絵巻物さながらに、読んだ者は精神に異常をきたすという怪著ではある。

 

 

空気が、カーンと乾いて寒さが際立つ。

 

一年ぶりの日本の冬。

この痛いような寒さは、曇天の多いロンドンには無い。

平成最後の、そしてこの家で過ごす最後の年の瀬。

 

 

本年もパチュリをお読みくださいまして、ありがとうございました。

人生第二のステージが幕開ける来年の様子も、また読書と旅行を中心に綴っていきたいと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

Kyoto、金閣寺

「私」はこの南禅寺の庵で、女が若い陸軍士官の捧げ持つ薄茶の茶碗に、振り袖の懐から自ら掴み出した白い乳房の乳を滴らせるのを見る。

それは士官の子を孕んだ女と出征する士官の別れの儀式であったろうし、世の中の醜さを憎み絶望していく「私」に、金閣と並んでたった二つだけ美しいと敬うことを許された現世であった。

しかしその後の「私」の人生に、彼女は残酷な堕落の姿を見せつける。

そして金閣だけが永遠に裏切らない汚れのないものの象徴として「私」の心に残存していく。

 

 

紅葉の京都。

そうだ、京都行こうと急き立てられて、GO WEST。

そういう流れが面倒で遠ざかっていたはずなのに、歳をとるとは不思議なものである。

今回はもうちょっと洛中の懐に飛び込むつもりで、Airbnbで祇園の町家を借りて逗留。オーナーはアメリカ在住の米国人である。町家という京都の伝統美は、もう既に目聡い外国の資本に席巻されてしまった後なのだろうか。

京都にいて日本家屋に滞在するのに、必要なコントラクトやインフォメーションがすべて英語なのは奇妙な感じ。上の階から降ってくる会話も英語だ。

しかしながら東京ではなかなかお目にかかれない古き良き日本家屋の情緒はそのまま。

重ねて、京都の厳しい寒暖や古家の水回りのストレスを現代の機能で完全に払拭した室内環境は、賞賛に値する。

洛中に存在する、枚挙に暇のない数々のクオリティの高いレストランも然り。

 

観光都市としてダントツの進化を遂げ続ける京都は、その歴史的に保存に心血を注いできた建築物が、現代の感覚を表現する一つのツールとなっているところが、日本国内でも独特の文化と人気を有する理由だと思う。

 

 

燃え上がるような壮絶な森の紅葉とはまた違う、古都の紅色を堪能する。

 

 

京都はその歴史的建造物の保存にあたって、常に火事と対峙してきた町でもある。

町を歩くと、一般の家々の前に消火用の赤いバケツが並んでいるのに気付く。

数回に渡る大火を経て、昭和五年の火事でとうとう国宝の四天王像を焼いてしまった、弘法大師の住居東寺には、大きなお堂の前にちょこんと、赤いバケツがまさに焼け石に水的に置いてあって微笑ましい。

サモトラケのニケを連想させる炭になった大きな四天王が四体、お土産ショップの後ろに無造作に陳列されているのも笑えたが、ご住職達にとっては笑い事ではない。講堂に15体の国宝の仏像を持つ同寺では、いざ火事となった時にはご住職が仏像を背負って逃げる練習をしているそうだ。

 

 

知恩院は永享三年に、南禅寺は明徳四年、延暦寺は元亀二年、建仁寺は天文二十一年、三十三間堂は建長元年に焼失した。金閣はまれな偶然によって火を免れたに過ぎない。かつてそれぞれの寺が、自然の火事という不安によって焼かれたのに、今金閣が焼かれないでよい筈があろうか。

 

「金閣を焼かねばならぬ」

 

 

「金閣寺」(三島由紀夫/新潮文庫)

1950年7月2日、国宝・金閣焼失。放火犯は鹿苑寺の青年僧という衝撃のニュースが日本を走った。

31歳の三島の美意識を表現し尽くしたそのニュース・ストーリーは、その真剣のような鋭さが読んでいて時に肌にざくざくと突き刺さって痛い。

三島の感覚の末端細胞としての「私」は、父親が極楽浄土のように美しいと憧れた金閣を持つ鹿苑寺で、吃音という闇を抱えて修行僧となる。彼は偉大である筈の老師や修行仲間を通して、世の中の認識と事実がどちらも非常に醜悪で下等であるという境地に陥って自己を放棄していく。

その彼の価値判断の中に、唯一汚れのない美しさとして存在するのがもの言わぬ金閣であり、堕ちていく認識の中で彼はその存在を醜い現世に残しておく苦痛に見舞われる。あるいは自らの手でそれを消滅させる自己陶酔に陥る。

敗戦体験やその前後の不安定な国情を経た三島の中で、自国の美的伝統は厄介で美しいアンビヴァレンスなものと捕らえられた。彼の滅亡への憧れが行間から立ち上る。

その三島が今の京都を見たら何を思うか。

 

古都と呼ばれるこの町は、実は紙と木で出来た平面を度重なる火事と戦火で次々に喪失させては再建を繰り返してきた新しい町である。今、これだけ美しい古の里として多くの外国人や観光客を集めるのは、その再建のたびにツーリズムを目的として加えた改良と維持のための営業努力の成果に他ならない。

金閣はその最も顕著な例であり、僧侶による放火というセンセーショナルな体験もまた、さらなる観光地としての価値を高めている。

営業努力には古都税に反対した神社仏閣のストライキを例に挙げるまでもなく、金銭の生臭さが付き纏う。

豊満な老師に絶望していく「私」、すなわち三島が嫌悪し滅亡させようとしたのも、美的文化のそんな一面だったかも知れない。

今回の京都滞在で、最後の日に金閣を是非訪れようと思っていたが、不覚にも体調を崩し、叶わなかった。再建後は国宝の認定も無く、剥き出しに金箔を張ったその建物は、青年僧が思い詰めたほどに今も人を感動させるものだろうか。

 

また京都に行く理由が出来た。

そう思うことにしよう。