Mito、青い眼がほしい

石名坂の上から、なだらかに海に向かって斜めに下りる細い道をゆるゆる下る時に、ふいに実家を見ても湧かなかった熱いものがせり上がってきたのは自分でも意外だった。

 

 

二人が施設に入居してから約10年間、空き家になっていた両親の家を遂に手放すことになり、その手続きのために故郷を訪れた時、ふと空いた時間に訪れようと思いたったのは、父が人生の大半を捧げたミッションスクールだった。

母が厳密に勤務体制が定められた公立高校の教師だったのに対し、父がいたミッションスクールは新しく自由な雰囲気で、働く女性のための保育体制が整わなかったその時代に母が不在となる時は、父はまだろくに歩けもしない頃から私を学校に連れて行き、自分のデスクの脇で遊ばせたり、宣教師達の家に預けたり、時にはがらんとした図書館に野放しにしたりした。

隣のゴルフ場と地続きの用地は、松林と広大な芝生が美しい緩やかな海側へのダウンヒルで、父の居る木造の事務棟から宣教師達のフィフティーズ住宅まで、幼すぎる私の足では、歩いても歩いても到着しなかった。疲れて途中の芝生に寝転がれば、頬の脇にタンポポが揺れていた。連れられてご飯を食べた学食は、米軍払い下げのかまぼこ兵舎だった。

 

考えてみたら小学校入学から高校卒業までたった12年しか住まなかった実家より、私は父に連れられてずいぶん長い間この学校に通ったのだ。その思い出の量が、手放す実家への思いを超えていたということなんだろう。

生徒数が増え規模が大きくなるにつれて、父はひとつひとつ注意深くこだわりを持って校舎を建設してきたが、その学校も今は、統一感の無い沢山の建物が葬り去られた芝生の代わりに節操無く立ち並んでいる。父の志はもう何処にも無い。

父が学校を去って35年。

それでも私はそこに父を見たような気がした。

 

 

父が一緒に仕事をしてきたアメリカの宣教師達は、どこからどうやって日本に、しかもこの茨城の片田舎にやってきたのか、その経緯を私は知らない。

この地に彼らが小さな学校を創立したのは1948年のことだ。

その7年前の1941年、ピコーラは自分の父親の子どもを宿し、その年、オハイオでマリゴールドの花は開かなかった。

「青い眼がほしい」(トニ・モリスン/大社淑子訳/早川書房)

 

アフリカン・アメリカン女性初のノーベル賞作家、トニ・モリスンのデビュー作。

アメリカの黒人作家の文学と聞いて先ず思い浮かぶ激しい抵抗の情熱とは裏腹に、読むうちに満ちてくるのは静かでどうしようもないやるせなさである。

貧困、無教養。暴力、犯罪、近親相姦、異常性愛。

何が原因で何が結果なのか、それすらも分からない掃き溜めのようなカオスの中の同胞のスパイラルを、著者は美しい言い回しで一皮、一皮剥がして露にしていく。単一民族国家のアジア人には最も感覚が鈍る部分、そのスパイラルの中に一度でも身を置いたことが無ければ描けない感覚だ。

その暗闇を、なぜ、と考えた時に、もし、こういう生まれでなかったら、という仮定に説明させるために、ストーリーと登場人物の生い立ちが交互に語られていく。そのため、筋書きは追いにくい。しかもそこに答えは出ない。もしこういう生い立ちでなければ、こういう親を持たなかったら、こういう環境を抜けだせていたなら、という仮定は何の役にも立たない。なぜなら、白人社会が正当だと思っている価値観は、彼らにとって望むべくも無いものだから。

彼らが切に望むのは、外見の醜さを消すことである。彼らは自分たちは醜いというどうしようもない劣等感をもって、自らを白人社会から疎外しているのだという著者の視点は、ひりひりとした出口の無い痛みを誘う。

友達から攻撃され、母親から見捨てられ、父親には陵辱されるピコーラが望むものは、たったひとつ、青い美しい眼がほしいということだけ。彼女が人として生きる価値判断を養う土壌の脆弱さがもの悲しい。

この子に、何を言ってやれるのだろう。

読み終わった後には、ただ重い無力感が残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Karuizawa、新薬の狩人たち

慣れない静養生活を数週間軽井沢で送って、夫は二度目のメスを身体に入れるために入院生活に戻った。

軽井沢で、夫と毎日10キロ近く散歩するカントは、急にいなくなったハンドラーに起こっていることを敏感に察知しているようにも思える。

酷暑が続いたこの夏、エアコンの無い生活が出来る森の中の家は千客万来で楽しかったが、私たちは厳しい現実に向き合うために里へ下りた。

 

 

消去法的必然文系人間は滅多に科学系本に手を出さないのだが、軽井沢滞在中にえいやっと読んでみた薬理の世界は、文学を超えるかも知れないロマンに満ち満ちていて、すっかり夢中になってしまった。

「新薬の狩人たち 〜成功率0.1%の探求〜」(ドナルド・R・キルシュ/オギ・オーガス/寺町朋子訳/早川書房)

新薬ビジネスはとりわけ巨額マネーばかりが取沙汰されるが、その製薬会社が喉から手が出るほど欲しい製薬のセオリーと技術は、多くはほとんど偶然に近いような確率でしか生まれないし、時には本当に偶然であったりする。そしてそれを突き止める研究者たちは、多くは金にはたいして興味の無い偏屈な化学オタクだったりする。

例えば歴史上最も売れてきたバイエル社のブランド薬アスピリンは、それまで何百年もの間、それこそ漢方やアロマテラピーのような科学的根拠が明確でない自然発生的成分で症状の緩和に寄与してきた古代薬理の世界に、1830年代に誕生した合成化学によって人間が”設計”した画期的な特効薬として華々しく登場した。近代薬理の発進である。

そのアスピリンが、開発に出資したバイエル社の巧妙な仕掛けによって、特許が切れた現代でも売れ続けるベストセラー薬に仕立てられていること、発明に最も寄与した化学者がナチスへの忖度によって浮かび上がれなかったことなど、アスピリン一つをとっても、まるで映画のようなドラマの枚挙に事欠かない。

こうして既存の自然発生薬の合成をいじりながら麻酔薬や症状緩和薬がまず登場した後、世界初の”治療薬”が誕生することになる。

サルバルサンは、製薬業界より合成化学という面では一歩先を走っていた染料の成分が、特定の”受容体”にのみ反応して発色するという仕組みに着目したドイツ人科学者エールリヒが、スピロヘータ科梅毒菌のみに着弾し破壊するヒ素の”弾頭付き”染料を開発、これが薬の歴史上だけではなく、まさに人類の歴史上でも特別な瞬間となった。このあたりは、もうスパイ映画のくだりのようである。

その後、製薬界はこの合成化学時代を経てバイオ医薬品時代に突入し、ある意味自由に成分を生み出し、組み合わせて薬剤を作れるようになったが、それは常に副作用というお荷物や危険、ビジネスを巡る金、または人体の謎などとの闘いをも生み出した。現代製薬界の最も大きな問題は耐性菌の出現であろう。

創薬の難しさ、サブタイトルの0.1%は、ドラッグハンターが提案した創薬プロジェクトのうち経営陣から資金を提供される確率が5%、その中で新薬発売に漕ぎ着けるのは2%という事実由来の数値である。

それでも果敢な挑戦を続けてきた古今の非凡な新薬の狩人、ドラッグハンターがいたからこそ、今我々はその恩恵を受け、命を救われたり苦痛を和らげられたりしている。

本著は出来るだけ専門的、難解な語彙を避け、流暢な抑揚を込めた文章で淀みなく綴られており、自分のような科学と化学の区別も満足に出来ない文系人間にも、製薬の歴史の壮絶、壮大なスペクタクルを分かりやすく読ませてくれる。

折しも夫が二回も(!)続けて手術を受けるという現場に居合わせる時期と重なったため、集中治療室で術後の痛みに耐える夫の身体に吸い込まれていく点滴やトレイに並べられた注射の数々、配布される錠剤などをまじまじと見てしまった。

手術がこの現代の最新医療の中であってよかったと夫には言いたいし(医者本人に言っても馬耳東風だろう)、術後順調に彼が回復に向かっていることを報告して、簡単に製薬ヒストリーのレビューを終えよう。

 

 

 

 

 

Karuizawa、アンナ・カレーニナ

夫の退院とともに、連日40℃近い灼熱地獄の関東から山を越えて、山荘に避難してきた。

 

温暖化とはいえ、都会の今年の暑さは狂気だ。

24時間エアコン漬けのなんともけだるい街の生活に、しばし別れを告げる。

 

 

昔は滅多に30℃を超える日が無かった軽井沢も、最近は31、2℃の日が珍しくなくなった。それでも森の中は緑の風が渡り、体感的にかなり低いように思う。

 

 

 

山荘にあるのは、涼風と有り余る時間だ。

本格的な避暑・観光シーズンを前にして、平日の町中は人気が無い。都会から移り住むに当っては、まずこのまばらな人口密度に慣れていかなくてはならない。

何十年も住んできた場所とは全く違った、新しいソサエティに分け入っていく覚悟も必要だ。来年から始まるリタイア生活の予習のようなものだが、夫はまだそこを持て余している。

ここでどう生きていくのか。

幸いこの町にはその先達が大勢いる。

現役時代に東京で活躍した多くの文化人がリタイアして住まい、町創立の歴史から欧米居住者も多い軽井沢は、一地方の町としてはかなり特別な雰囲気を持つ町だと思う。

望めば東京並みの食事も叶うし、特にジャズなどはクオリティの高いアマチュアセッションにあちこちで出会える。

 

そんな中に少しずつ稼働領域を広げ中。

 

 

森の中では圧倒的に本を読んで過ごす時間が多い。

 

 

文庫本3冊に渡る壮大なロシア文学の読了に取りかかる。

アンナの生き方を否定しない。

帝政ロシア、その知の巨人の視線の角度。

「アンナ・カレーニナ」(トルストイ/木村浩訳/新潮文庫)

 

ストーリーは、トルストイの出自そのものの19世紀ロシアの貴族社会を背景に、美貌の人妻アンナと、農場経営と教育に情熱を傾ける伯爵リョーヴィンの全く対照的な二つの結婚生活を、縦横に巡らした貴族間の婚姻関係で自然に関連づけて展開していく。

何一つ不自由の無い婚姻をしながらも、自己の愛に忠実であろうとするが故に破滅していくアンナに、人生の教師として思想界に名高いトルストイは己の理想の女性像を与え、その生き方に批判の目を投影していないように見える。しかし道を誤った女を罰するのは、社会や夫ではなく、苦しみ、後に非業の死に至る人生を背負わせる大きな存在であろうという、宗教に基づく彼なりの解釈もまた成り立つように思う。

一方、広大な農地を所有し、都会の上流社会とは距離をおいて自己の理想郷を確立しようと努力するリョーヴィンは、まぎれも無くトルストイ自身の化身であり、彼の口を借り、現代文明への鋭い批判と指南を本著において表明している点で、この小説がありきたりのロマン小説ではなく、社会的なステイタスを持った重々しい名作として世に評価されることとなったと理解する。

 

 

世に言う名作は、絶えず私たちの目に触れるところにありながら、そして若い時に読むべきだと言われながら、私の場合はいつも目先の新しい、その時の興味の赴くままの選書になってしまい、特に読破に時間のかかる長編は迂回してしまいがちだったことを反省している。

社会の第一線を退いた後に横たわる長い時間は、今までと違う生き方を模索する時間であると共に、こういった読み残してきた大作を一つ一つ味わっていく、熟成の期間でもあると思う。

今、その時が来たことを幸せに思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Moroyama、@ガン病棟

孫娘の初めてのピアノ発表会を夫と楽しんでの帰り道は、ロンドンでよく見た輝く薔薇色の空であった。

その色を愛おしげに脳裏にインプットして、夫は最初の軟骨肉腫切除手術のために、埼玉の奥地にある国際医療センターに入院した。

今、日本全土を覆う殺人的な猛暑のちょうど始まりの日、西日本を豪雨が襲ったその日だったように思う。

医療センターのメインエントランスは真西に大きな開口部を設け、影が全く無いだだっ広いアプローチは堪え難い西日を直接照り返させ、それが弱った患者や心痛を抱えた見舞客の気力と体力を奪った。

それぞれに皆忙しい家族故、入院も手術も一人で立ち会うつもりでいたが、ベトナム在住の次男が仕事の予定を合わせて帰国し、両日付き添ってくれた。

院内のスターバックスに設けられた七夕飾りは、健康な人々の毎日がどんなに贅沢なことかを言外に語る、独特の小さく光る星々であった。

 

 

今回夫のがんを知った人達の多くが、もう来年は私が未亡人になるかのような視線を投げかけるのであったが、それはそれで置いておくことにした。実際に患者を家族に抱えた身には、エモーショナルな同情はただ気が重く、実際に一つずつの検査や治療を粛々と進めていく無機質な前進だけが、出口の光に向かう唯一の手段であることは明白だった。

 

 

自覚症状も無いままに、まさに偶然のように発見された初期の腫瘍で転移が認められず、術後の放射線治療も可能性は低いとのことだったので、2週間に渡る夫の入院生活は、皆さんの心配を他所に、本が20冊くらい読めるいい休暇みたいだった。(しかし彼は一冊も読まなかった)

私も食事をバンバン差し入れたので、病院の食事もそれほど堪えなかったようだ。

 

いつもクリニックで夫の身体をケアしてくれるアロマセラピストが出張して足浴と角質除去をしてくれ、これはもうスパ付き休養という贅沢さであった。

 

最初は毎日家族親族に様子を伝える必要で始めた定点観測も、日々の回復度合いが見てとれるものとなった。

 

 

退院の日。

 

日本人の二人に一人はがんだという時代である。

医療と技術が発達し、医学で治らない病気が少なくなり、でもがんはそこに最後に残っている。

子どもや若い人のがんは辛い。

しかし夫自身も常日頃言っているように、私たちの世代のがんがほぼ細胞の老化であることを考えると、少し早いか遅いかの差はあるにせよ、それは自然の病態として静かに受け入れたい。社会の責任を果たし終えた後の第二の自由な人生の中にあるがんは、誰にも迷惑をかけない。今回夫は早い段階の発見だったので切除に踏み切ったが、責任を果たし終えた後に、幾分か長く生きることはそれほど必要なことだろうかと思う。

私は55才から一切のがん検診を受けていない。

生き長らえることに執着しなくなると、がんの受け止め方も自ずから変わってくるものだ。

 

ガン病棟は、明るく静かで祈りに満ちている。

夫に付き添い、何度も何度もここに通いながら、私はがんになった片方を労りながら沢山の老夫婦が寄り添う姿を見た。

そこには長い人生を一緒に生き、ここでがんという不幸に見舞われはしたが、夫婦二人の歴史の中で静かにその出来事を咀嚼している穏やかな強さがあり、見ていてなぜかほっとした。

 

夫は来月、また検査の過程で偶然見つかった腎細胞癌の切除手術に臨む。

ちょうど長男に医療法人を移譲する手続きを進める中での今回の発病は、自分が主役であった人生の隆盛期に別れを告げる、一つのステップなのだと考えたい。

発病、その後の入院にあたり、ご尽力、ご心配頂きました皆様に、心からお礼申し上げます。

もう少し治療は続きますが、入院中も院内を毎日1万歩歩いて(別な病棟に入れられるかと心配した)体力増強に努めた本人が何より非常に前向きに取り組んでいるので、どうぞご安心ください。

きっと彼は完治させるだろうと確信しています。

 

 

 

 

 

 

 

Matsuyama、安藤建築を訪ねて

人生62年で初めての四国上陸である。

あんなに海外飛び回っているのに、国内に関しては驚くほどモノを知らないねとよく言われる。

新幹線の乗り方もアヤシかったし、都道府県の位置もすこぶるアヤシかった。特に電圧の変わるポイントから以西は、つまり近畿から向こう(その関東目線がけしからんと関西の人には言われる)に関しては、大阪と京都・奈良(=修学旅行)以外行ったことが無く、無知そのものであった。『沈黙』の読書感想文県知事賞記念に、高校卒業時に父が伴ってくれた長崎が九州では唯一の私のフットプリント、ましてや四国と来ればどんなに探しても繋ぐ糸が見つからず、遠い異文化の地、教科書で習ったうどんと塩田と鰹しか知恵を振り絞っても浮かんでこない場所だった。

自分の生まれ育った国に対する無知の前の異国への憧憬は、なんと危ういものだろう。ロンドンに暮らした後に余計それを思うようになった。

日本の美しさを著した著書を貪るように読む日々である。

 

そんな私にとって西への一番身近な足がかりは、若い頃大変衝撃を受けた建築家の活躍の場だということだ。本当は直島に行きたかったけど、ベネッセハウスはもう半年先まで予約いっぱい。着地したのは愛媛、松山である。

 

もと◯王製紙創業者の私設ミュージアム&ゲストハウスだったという安藤忠雄デザインは、松山市内から車で30分ほど走った小高い丘の上に開けた同企業のナンバーワン製紙プロダクツ、◯リエールの名を冠した有名ゴルフ場に隣接している。竣工以来20年創業者一家の成功を具現化したリトリートとしての役割を果たしてきたが、2年前別法人に移譲され、施設は新しくホテルとしてのスタート切ったという。

期待に違わぬコンクリート打ち放しの妙。

 

安藤忠雄。

それまで構造の素材でしかなかった鉄筋入りコンクリートをそのまま剥き出しにして、内外壁面のマテリアルとして表現してみせたこの視線にとことん惚れた一時期が私にはあった。建築誌で見た、同じ建築家の城戸崎氏私邸が指針であったと思う。

ちょうどこのホテルが竣工するのとほぼ同時期に自宅を建てることになり、こちらはご本尊にデザインを依頼するつても経済力も無かったが、打ち放しを勉強している建築デザイナーに巡り会って、迷わず自分の家はこの素材を選んだ。

実際に住んでみると、壁紙はおろか断熱材を挟み込めない壁構造は、コンクリート特有の蓄冷熱効果により、夏異常に暑く冬は我慢ならないほど寒かった。それは初期の安藤建築の自邸に住む◯シノヒロコ他多数のクライアントが吐露するところだ。

 

それでもコンクリート打ち放しの壁に魅入られたのは、一言で言えば、嘘の無い潔さだった。

壁紙や彩色によって壁の素材や構造を覆い隠せない分、コンクリートの質と配筋量と打設技術がすべて。拙宅の打設には建築家自ら武装して職人と共にコンクリートを打つのを、私も現場で見守ったものだ。

 

毎日コンクリートの箱の中で暮らすのは味気ないと人は考えるかも知れない。

しかしその自然のつやと量感は伸びやかで力強く、柱の出っ張りの無い大空間は鷹揚で、30センチ超の厚みは東関東大震災にもびくともせず、その無機質さは中に配置する絵や家具を一際引き立たせてくれた。5m近い天井高と堅固で密なるコンクリートは、中で奏でられる音をしっかりと受け止め反響させた。

一時大変人気のあったこの工法も、劣化したコンクリートの処理や始末の問題で、近年は一時ほどの隆盛を見ない。

それでも毎年この時期に咲き誇る白いアナベルをゴージャスなウェディングドレスのように纏って美しいこの無機質な屹立が、私は気に入っていた。

 

そこにやはり20年住み、来年の息子への医療法人移譲とともに、我々夫婦は近い将来この家を去る。

愛してこだわった住処をあとにする日はどんな人にもいつかはやってくるのだと、比べ物にならない小さな自宅ではあるが今の自分を鑑み、このホテルの由来を聞いた時に私の胸には響くものがあったのは事実だ。

 

 

 

ホテルのダイニングで供されるのは、関東人には珍しいばかりの四国の食材をふんだんに使った洗練の極み。

もともとプライベートな滞在を目的に建設された建物なので、商業的なアクセスの便利さは考えられていない。そのため食事は必然的に施設内でしか摂れない。その不自由さを補って十分な質だったと思う。

 

 

この私の「今さら日本みてある記」の一歩を踏み出すその3日前、夫に軟骨肉腫という非常に珍しい骨のがんが見つかった。その検査過程でさらに左腎細胞の病巣も露見した。

検査に次ぐ検査の日程と本人の胸中を思い旅行を取り止めることを考えたが、検査の日程に合わせ、事前了承の規定により返金が叶わないこのホテルだけ日程を短縮して二泊だけ出掛けることにした。ホテルがその中でできるだけの配慮をしてくれたのがありがたかった。

 

 

瀬戸内の無数の小島を臨むプールの、穏やかであまりにも美しい夕暮れ。

 

黄昏という言葉が、このホテルの歴史や自分の人生と綯い交ぜになり、脳裏に浮かんでは消える。

それは峠を越えて坂を降り始める哀愁であり、どこか肩の荷を降ろす時の心地良い脱力の気持ちでもある。

馴染みの無かった場所で開業した夫と共に突っ走ってきた20年は、長いようであっという間だった。夫は苦労させたと言うけれど、前進するモチベーションに後押しされて全てが新鮮で楽しかった。

息子達が独立し、両親を送り、迎えた還暦を期に私は夫から一年の休暇を貰い、ロンドンで人生初の一人暮らしを体験した。人生でこんなに楽しい日々があるのかという夢のような時間のその二年先に夫から長男への法人のパスダウンを見据えて、夫婦の第二の人生計画を立て始めたその時に、空から癌が降ってきた。

 

 

人生はどの人生も一つのストーリーである。

個々の人生は多分ニーチェの永劫回帰思想から言えば、始めから決まっていた大構造の中の小さな一つのパーツに過ぎない。それが哲学におけるひとつのソース、日常の些末な出来事は、全てを見渡せる大きな長いスパンの視線を獲得した時に救われると感じる。私達夫婦の今日もまたその一コマにしか過ぎない。

 

 

 

ただ心穏やか。

長年母子の命に向き合い、尽くしてきた夫の休養に、今は寄り添いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Karuizawa、ウマし

さて、父親がアフリカに派遣中で、持て余し気味の孫達のエネルギー放出の手伝いである。

「暴れます」

軽井沢駅に降り立ったミニ軍隊、のっけから不穏な空気である。

 

彼らの恰好の標的となったのは、服従という言葉を知らない3才カントである。

吠えようとも逃げ回ろうとも捕獲され、撫で回され抱きしめられの刑に会う。

老いて達観、無抵抗主義のメグは、比較的自由を勝ち取っている。

 

 

山荘はまるで戦車が通り過ぎた後のようである。

破壊衝動。

 

竜巻連隊通過後、山荘には疲れという名の静寂が下りる。

むにゃ・・・・

 

 

 

このロックな週末は例外として、東京のように出掛ける理由がそこここにあるわけではない軽井沢では、時間は都会の1/3くらいの速度で流れていく。

新しく出来た本屋まで、二つの森を抜けて歩いていく。

軽井沢にも簡便な規模ながらブックカフェという概念が滑り込んできたようだ。

インターネットで全て手に入る時代、本離れ、本屋離れが進む日本でかろうじて抵抗の狼煙を上げたのが、「魅せて飲める」本屋、つまり今まで背表紙しか見せてこなかった陳列を崩したディスプレイ、ショップやカフェを併設して本を楽しむ空間を擁した本屋である。日本では数年前、代官山にT書店が先陣を切ったあと、似たようなスタイルの本屋がぽつぽつ登場し出した。

そんな時期にロンドンへ飛び出して、一番感心したのは、彼の地のブックショップのステイタスとその佇まいであった。ロンドンからの報告にも何度か書いたが、何百年も続くブックショップは本を買わない客にさえも鷹揚、そこにいるだけで大好きな本の頁の中に自分が入り込んでいるような重厚で美しい雰囲気を無料で提供してくれた。なかなか英語で読める本が少なく、目当ての本があるわけでもないのに、通りを歩くのに疲れた異邦人は道すがら好きなブックショップに立ち寄って寛ぎ、書籍と本読みの匂いに酔いしれたものだ。

英国ではブックショップを通して、本がある生活がまだまだ本能に近いところにあると感じたし、日本の書店の味気ない雰囲気と衰退がまた残念に感じられた。

 

 

多少なりとも魅せる本屋の流行を追った軽井沢の新しい書店で、料理エッセイ3冊と廃墟の写真集を買う。

「不法侵入 ー朽ち果てた廃墟の世界ー」(アンドレ・ゴヴィア/グラフィック社)は、以前Amazonで買おうとしたが、写真集はさすがによほど評価が確定しているものか贔屓の写真家のものでない限りネット買いは憚られ、買えずじまいだったものだ。店頭で頁を繰るうちにぐんぐん自分がそのオーラに引き寄せられるのを感じ、即買いする。

意図せず、帰り道の森の中で、打ち捨てられて廃墟と化した大きな料亭がまさに森に飲み込まれんとしているのを見る。

大蛇のようにうねった藤蔓が、今にも元の藤棚を押し潰さんばかりに獰猛に無法に生育しているのに、目が釘付けになる。

廃墟が写真家や我々を引き寄せるのは、かつてそこに存在した人間の息づかいを感じるというよりも、人工物が命を終えた後に自然に飲み込まれて土に帰ろうとするその永い永い時間を感じるからだと思う。

背中がぞわっとするような感覚が立ち上る写真集だ。

 

 

いつから料理をしなくなったのだろう。

息子達が大学入学と同時に家を出て、小鳥に給餌する必然性が無くなった時期に重なって夫の医院開業のマネジメントを引き受けるようになり、専業主婦を廃業した、ちょうどその頃だったと思う。

学生の頃からコルドンブルー出身のおばあちゃまに手習い、料理はとても好きだったのに、それはあっさりと私の手を離れてしまった。

夫より帰宅が遅い日もあり、外食ばかりではと、食事を作るお手伝いを人に頼むようになり、一旦人に任せた台所は、我が家にはあったが私のものではなくなった。人の使った台所は急速に料理への意欲を失わせた。

そして再びロンドン回想。

住んでいた部屋の簡単なキチネットで、一人分の食事を作ることが楽しくて仕方がなかった。馴染みの日本の料理を出来るだけ近い食材を見つけて作ったり、食材を市場で買って手早く調理してクイッとワインと一緒に喉に流し込んだり・・自分だけが美味しいと思えるために料理をする、自分の舌の感覚だけを頼りに調理するってサイコーだ。それを面白いと感じて度々キッチンに立った。

時間が単純に無かったことから疎遠になっていた料理だから、軽井沢でたっぷりある時間は、読書とまず料理に当てることから使い始めることになった。

子どもの頃母に言いつけられて嫌々やっていた鰹節掻きやもやしのひげ根とりは、丁寧に料理する過程として今は楽しいと思える。

久しぶりにやはり何か料理のヒントが欲しくて、料理エッセイに手が伸びる。

料理本ではなく、料理エッセイ。作り方そのものよりも、行間から料理とは何かを感じとりたいと思う。

そうそう。

母が結婚する時に持たせてくれた料理本は、当時は皆そうだったのだろうが、きっかりと、材料、分量と箇条書きの手順が羅列してあるだけの、まさに教科書のようなもので、全20巻もある装丁本だったことを考えると一種の嫁入り道具だったのか。誰が作っても同じに完成品ができる、ある意味優れものではあった。

 

そしていつからだろう。

職業的な調理人ではなく主婦の延長のような「わたしらしい料理」を打ち出す料理家という呼び名が流行り出したのは。私の記憶では◯原はるみさんや、◯野レミさん辺りからだったような気がする。

料理は重い豪華装丁本から学ぶ作り方ではなく、家庭から発信するちょっと上級の個性を学ぶ方向に変わったのだ。

「ウマし」(伊藤比呂美/中央公論新社)

「良いおっぱい、悪いおっぱい」などの著書や詩集で女の生を独特の表現で著して世を刺激し続けた作家の食に対するエッセイは、これまでの彼女の著書同様生々しく本能的で、他に類を見ない比喩表現が突出する。

食べる、ではなく、食う。

親子丼はドナドナ。

きのこは人肉の記憶・・・

 

 

食うということはセックスと同様、本来の人間としての感覚を駆使した原始的な欲求行為、本能と五感と記憶に密接に結びつく。そんなことを「あたし」はそのかなり捌けた文章でストレート裏漉ししてみせる。

カリフォルニアと熊本を行き来しながらの生活故、日本の食を懐古的に俯瞰したような視線も独特だ。

 

 

山荘のキッチンを手懐ける時間。

今はそれを楽しむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Brno、存在の耐えられない軽さ

去年ロンドンで、母の日にシャンパン携えてお世話になっていたおばあちゃんのお家を訪ねたら、あら、イギリスでは3月に終わったわよと言われた。

全世界共通ではないのね、母の日。

ベトナムとナイジェリアにいる息子達がし〜〜んとしているのはそのせいと理解しよう。代わりにお嫁さんと孫達が来てくれる。

義母に花を贈るまだ娘でもあり、かつて母親としてはあまりにも未熟すぎたけど、今、周りにわいわいとこの日を盛り上げてくれる若い輩がいるのは楽しい限り。

小学生だった次男が学校帰りに小遣いでカーネーションを買おうとしたのに、「50円足りないって言われた」としょんぼり帰ってきたのも、きゅんきゅんする思い出だ。

カーネーションは無かったけど、心にぽっと花が咲いた。

 

その次男は今は建築家としてベトナムで開業している。

 

 

 

彼と、ミース・ファン・デル・ローエのトゥーゲントハット邸を観に、チェコのブルノを旅したことがある。

ウィーンでニューイヤーコンサートを聴いた翌日だったと思う。

クンデラの故郷は、モノクロで音の無い美しい町。

小高い丘に建てられたモダンの機能美はおどろきの1930年竣工。

プラハの春を眺め、ソ連のチェコ侵攻を耐え抜いた家である。

 

 

 

「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ/千野栄一訳/集英社文庫)を読む。

 

プラハの春に見えた自由への希望を、僅か4ヶ月後のワルシャワ条約機構軍プラハ侵攻で大きく打ち砕かれ、共産主義の言論統制下に翻弄される恋人達の生き様を描く。

200人と寝たというドンファン外科医トマーシュと、彼と生活を共にし、嫉妬に苦悩する田舎娘テレザの周囲を、スターリン、ブレジネフのキッチュ(俗悪なもの、と訳されている)が歪めていく。

哲学的で女好きなブラックジャックは、最後の最後で連れ添うテレザの回想によって本質の全容を明らかにされ、本著を究極の恋愛小説に押し上げる。そのストラクチャーがあまりに巧みである。

その心模様と人間関係を哲学的な第三者の目で語っていく著者ミラン・クンデラ、ブルノ生まれ。1968年4月に起こった民主化運動「プラハの春」を文化面から支えるも、僅か4ヶ月後の8月のソヴィエト軍プラハ侵攻により発足した傀儡政権下で、チェコ国籍剥奪、著作全篇国内出版停止。フランスへ亡命。1981年フランス国籍取得、1984年「存在の耐えられない軽さ」仏訳で初出版。1989年ビロード革命後、クンデラ5著作がチェコ国内出版解禁。

人生のドラマを重さというメタファーで表す思想的な記述もさることながら、惚れ惚れするのはクンデラの言語的なセンスである。特に意表を突く洗練されたメタファーと、まるで現代のキャッチコピーのような鋭い二語対比(「前景は分かりやすい嘘、背景は分かりにくい真実」、「悲しみは形態であり、幸福は内容である」など)は刹那的な才能が光り、久しぶりに傾倒出来る作家に出会った喜びを噛みしめる。

読書術には一工夫要る、所謂一筋縄ではいかない本の一つだろうが、ストーリーを読むというよりは彼のセンスと思想構造を読む、そんな一冊だ。

 

 

日曜、涼しく乾いた風が家の中を吹き抜けていく。

近年数えるくらいしか無い、爽やかな一日。

夫がゴルフに出掛けた後、洗濯と掃除をやっつけて、あとは日がな犬達とゴロゴロしながら好きな本をあちらこちらとブックサーフィン。

こんな日がいい。

 

トマーシュの元へやってきた時にこの本を携え、安寧を見いだす小さな存在の飼い犬にカレーニンという名を付けるテレザの皮肉な小道具、「アンナ・カレーニナ」が、次の課題本だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Karuizawa、百年の孤独

犬達を連れて、軽井沢の我が山荘に来た。

ロンドン滞在を挟み、一年半ぶりだ。

何も変わっていない。

夏用のドレープ、キイキイ軋むロッキングチェア、まだ使い込めていないドラムセット、旅先の思い出の品々、湯船に浸かりながら眺める隣地のしだれ桜・・・

夏のほんのひと時、賑やかな家族を暖かく胎内に迎え入れてくれる古家は、それ以外の長い長い時間を孤独にひっそりと埃の中で消化している。

圧倒的に長い人間不在の時間を溜め込んで超越した空間。

仕事が忙しかった頃は、ここへ来て日常の煩雑な繋がりを一切シャットアウトして過ぎる時間だけを楽しんだものだ。

この山荘は、世間から自分を隠してくれる魔法のマントのようだった。

夏の間だけ呼吸する町の特別な雰囲気もまた、気持ちの転換に大きく役立っていた。

 

 

その、夏しか使ってこなかった山荘の機能を通年過ごせるように改装した。

 

一年後に迫ったリタイア後の軸足はここに置く。

 

ロンドンでそう決めていた。

帰国後を考えた時に、今までと同じ生活の繰り返しではあまりにも愚直でロンドンに居た意味を無駄にすると感じた。

夫は唐突な提案にさすがに驚いたようだが、そこは理詰めと行動先行で、私たち夫婦と犬達と横たわる長い時間をここで見渡していく。

山荘は別荘ではなく、居宅になろうとしているのである。

 

 

 

その準備段階であり、これまでのテンポラリーな滞在と違って異例に長い今回の軽井沢生活では、ただひたすら本を読んだ。

 

コロンビアの作家G・マルケス=ガルシアの「百年の孤独」(鼓直訳/新潮社)は、完全読了に自信が無くて中国旅行中もずっと携えていたが、読書会の月の課題図書、ベストセラー本の「勉強の哲学」(千葉雅也著/文藝春秋)を読まなければならなかったため、一旦中断。また史上最年長芥川賞受賞「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子/河出書房新社)を一晩で読んだ後、相当の時間を使って一気にこの滞在で読み上げた。

 

 

読書は格闘技でありたいといつも思っている。

分量しろ、内容にしろ、本に分け入って自分の能力を振り絞り、なかなか前へ進めなくてもう読むのを断念したいと思いながらそれでも齧りついて読破した本は、デュースでマッチポイントを何度か握られながら逆転勝利したような気分になる。

本著はそういう思いを完全に満足させる一冊であったことは間違いが無い。

簡潔な短文で言い切りながらブエンディア一族百年の栄枯盛衰を500頁近い分量に積み上げる筆力とエネルギーは、見事の一言に尽きる。今までに読んだことの無いスケール感である。

圧倒されるのは分量のみならず、迸り溢れ出す生命の原始的で濃密なエネルギーである。

理想郷開拓に燃えたホセ・アルカディオとウルスラ夫妻を頂点として6代、百年に渡る連綿と続く生命の系列は、時に先代を追い越し、時に長寿が4代を見渡し、時に正統からはみ出し、常識や順序を全く無視して力強く営まれていく。特に嫡出系たる男子がことごとく変人で凄惨な死を遂げるのに対し、ウルスラを中心として嫁ぎ来た女性達が逞しく淡々と、それぞれの信念に従って大家族の屋台骨となって生き続ける姿が突出する。

種の保存という極めて原始的なセオリーを前にして、常道や正当とはどういう意味を持つのだろうか。

男子は全てアウレリャノかアルカディオであり、また非嫡出子も家系に連なるため、巻頭の家系図が読破のための大切な羅針盤となる。

 

 

様々な今後の人生への思惑を絡めながら山荘を手入れしつつ読んで、今思う。

一時は栄華を極め家系の繁栄を包括し続けたブエンディア家の大きな屋敷は、世代ごとに変容をを繰り返し、豚のしっぽを持った子の誕生を最後に一族が絶えた後、南米の旺盛な生命力を迸らせる植物に飲みこまれていく。軽井沢の楚々として涼しげなそれと異なり、南米の緑の滴りはなんと獰猛で戦闘的なことか。地球上を何千年にも渡って支配してきた植物の強靭なエネルギーに対すれば、たとえ百年を経て繁栄を極め存続したとしても、人間の営みはほんの小さな瞬間でしかない。このような時間的空間的感覚は、多分文化思想先進国の作家には描き切れないだろうと思う。

後述しようと思うミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」では、永劫回帰の思想に比べ、一度きりの人生の軽さに言及があるが、この「百年の孤独」の圧倒的なスケールから見渡した一人の人間としての立ち位置の矮小化は、やはり心を軽やかにしてくれた。

数十年後に山荘も自分も穏やかに朽ち果てていくのだろう、多分。

そう。

死ぬというより朽ちたい、今はただそう 思うけれども。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Wuzhen、烏色の甍

悠久の時を畳んできた墨色の瓦屋根が水路からぞっくりと立ち上がる。

烏鎮(Wuzhen)。

最後のデスティネーションへ来た。

 

古代北京からの京杭大運河の終点に当り、いくつかの湖が点在する中国浙江省の首都杭州からは、車をチャーターして片道1時間半ほどだ。運河最大水路の一部がこの村を湾曲しながら迷路のように細かく流れており、両岸に建つ、この地独特の黒い土で焼かれた瓦屋根の民家との美しい対比を魅せている。

どこかベトナムのホイアンやラオスのルアンパパーンに似た、ノスタルジックな風景。こういう村に出会えるのが自分のアジアの道行きの最大の楽しみである。

アジアのベニスと呼ばれるけれど、アドリア海の陽光に満ち満ちたヴェネツィアとは趣と匂いが全く違う。どこか苔の湿りのある無彩色の光景だ。

 

烏の尾羽色のストラクチャーに水辺の光を映して色を挿すのは、独特の美しい透かし彫りを多用した建具類である。

同じ水路都市ながらヴェネツィアと決定的に違うのは、水に浸かり晒される建造物が腐り易い木造家屋だということだ。木材は楠が多いという。

そしてそこに使われる繊細な透かし彫りに至ってさえなお、こうしてほぼ完璧に何百年も保存されているのは驚異的である。政府主導の保存活動が完璧に行われている所以だろう。

水路間の細長い僅かな土地に、片側を水路、片側を狭い路地に開放して、縦にびっしりと京都の町家風の鰻の寝床状家屋が立ち並ぶ。水路側はこれまた京都の川床のようなテラスが張り出しているのが普通だ。

杭州名物東坡肉、観光客相手の大箱レストランで食べても旨すぎる。

 

ようやくつなぎ止めたホテルのマネージャー相手にドライバー手配の交渉をして到達した、ややアクセスしにくい土地だが、来て本当によかった。

これでお決まりのあの観光バス連ねた団体が押し寄せていなかったら、ねえ・・・

 

 

 

中国一人旅の最後の逗留地、杭州へはこの烏鎮への足がかり拠点として、その二日前に来た。

上海虹橋駅からは高速列車でわずか1時間である。

 

水の都という旅情たっぷりのコピーから想像してきた長閑な観光町というイメージは、駅に着いた途端に木っ端微塵。何百棟もの高層マンションに、西湖を核とした旧市街地がわさーっと囲まれている大都市だった。

 

 

気温いきなり真夏日。

もう、体温調節機能は完璧にぶっ壊れている。

ホテルは三都市それぞれ違った雰囲気が欲しかったので、杭州は勝手なイメージからアジアンリゾートには古くから定評のあるブランドを選んだが、失敗した。

部屋も敷地も何だかムダに広い。

英語はほぼ通じない。

国立公園内に位置するため中心地からタクシーで1時間弱かかり、周囲に食事が出来るような環境も無いのにディナーのダイニングがお粗末。

最悪なのは、近くに戦闘機の離発着する施設があるらしく、毎朝毎夕ものすごい爆音劇がほぼ1時間続く。リゾートホテルでこれは決定的なダメージだろうと思うが、文句言ってみた先のスタッフの、それが何か問題でも?みたいな罪の無い無邪気顔見ると、この国ではそれもありなのか。

もうホテルがスタートして10年以上経過しているのに、◯球の歩き方の星の色が白ではなくグレーなのは、そういう意味かと来てみて初めて分かる。

もうここまで来ると、いっそガイド本含めた情報統制もパンダ的観光の目玉のように思える。

杭州独特の透かし彫りのスクリーンを使って部屋はそれなりに”インスタ映え”するのに、惜しすぎる。

物事の最重要点への認識が、やっぱりどこか西側諸国とは違うのだろうか。

 

送迎のタクシーを手配してもらうという一手間を余計にかけて中心街へ行き、西湖湖畔を散歩する。一周15kmを気温30℃の炎天下で歩く元気は出ず、40元払って乗り合いバギーのようなカートで巡ることにする。

天安門広場ほどでは無いが、ここも一大観光地であるから、国民の皆様の大群衆が押し寄せる。大型バスを使った自国民の大団体が大挙していたる観光地に群れる風景は、日本でもその他諸国でもかなり珍しいが、13億という人口を擁すればそれも至極当然のことなのか。

 

一通り湖散策を終えたら、まるで旧軽の森を思わせる西湖畔の並木道にあった小洒落たレストランで、とにかくホテルのダイニングを当てにせず夕食を食べる。

この通りは、美術館や、こんなレストランやバー、香しいパンを売る小さな店が建ち並び、ここだけ西欧のリゾート風。

白ワイン2杯にほろ酔い、迎えのタクシーの時間を気にしつつ早足で歩き見た西湖の夕暮れは、団体客もすべて撤退し終え、それだけは本当に美しくほっとした。

 

 

 

10日間の中国一人旅。

距離的に近いというだけで無防備なまま来てしまい、考えてもみなかった中国のシステム的なところでかなり戸惑ったけど、総じれば、異文化を見るというのはまさにこういうことだ。

歴史が残した文化遺産や芸術ばかりでなく、政治や暮らしの異質さを楽しむこと。旅の醍醐味は、まさにそこに尽きると思う。

旅の翼に乗ってしまえば日本列島はあっという間に眼下に迫る。それほど近い国なのに、流れている日常はなんと見知らぬ色に染まっていることか。そんなところを一介の旅行者であれば暢気に楽しんでしまえるが、連日の報道のように両国間に横たわる大きなギャップと対立は深刻である。

距離的に近いのに、精神的にはとても遠い国、中国。

でもまたいつかただの旅人として幾多の先入観を超え、横たわる時間を感じに彼の地を踏みたいと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

Shanghai、租界の街

混迷の北京をあとにして、上海に来た。

 

 

北京から上海までは、中国の誇る新幹線に乗ってみるつもりで来た。

日本からの行き帰りのエアチケットだけ取って、国内移動は行ってから何とかなるだろうとお気楽に考えていたけど、北京へ来て英語があまりに役に立たないので、移動の列車確保は東京駅で新幹線の切符を買うようなわけにはいかないことが何となく分かってきた。

さて、どうするか。

ペニンシュラベアを持ってきてくれたレセプションのお兄サンに切符購入事情を聞いてみると、いとも簡単に「コンシェルジュが買いに行きますので、ご希望の時間を伺います」との返事。心の中で、やった!と思う。

(ペニンシュラ北京のベアがページボーイの制服着てない。尖りぶりがいかにも北京)

エコノミー<ファースト<ビジネスというシートランクに一人大ウケした後、ファーストの代金1000元の現金とパスポートを他人に預けるというちょっとハイリスクなオーダーをする。そこは世界の半島酒店を信用した。

果たして3時間くらいでチケットとパスポートが届けられ、よし、これで上海までは行ける、その後のことはまた上海についてから考えようと独り言つ。さすが半島酒店。

 

 

前述したように、中国で列車のチケットを買うにはIDが必要。外国人はパスポートを提示して、チケットには個人名とパスポートナンバーが入る。駅に入るにも空港のようなセキュリティチェックがあるし、改札でもパスポートとチケットを照合される。一挙一動を国家に監視されてる気がする。

実際に搭乗口のような改札にはこういう方々がいらっしゃる。

 

北京南駅はまさに空港かと見まごうような大空間。

そこに隙間無く詰め込まれ動く、13億の何千分の一かのものすごい数の旅客者の濃密な集合体。結構迫力ある眺めである。

「一等車のお客様は並ぶ必要がありません」

まごつきつつ目当ての搭乗口を見つけて大群衆に混じって並んでいる私に、翻訳機の日本語を見せて、優先搭乗口から指定シートまで案内してくれたのは、駅のあちこちにいる案内係の青年の一人。これは料金かチップを取られるのだろうと推察して20元札(約340円)を渡すと、顔を真っ赤にして要らないと言う(言ったと思う・・)

インドだったら100ドルとか言われそうだなあと思うと、中国のサービスシステム、なかなかいいじゃないかと思う。

 

シートは日本のグリーン車よりゆったり。上海までは6時間弱という大移動だが、これならまったく問題無し。

移動中に読むのは「百年の孤独」と上海指南書、到着する上海虹橋駅で、どうしても明後日の杭州行き列車のチケットを取っておきたいのである。今度はペニンシュラのコンシェルジェは居ないので、自力で。

外国人は自動切符販売機を使えないらしいので、中国語が話せない以上、これは窓口で筆談しか無いと腹をくくる。

◯球の歩き方に出ていた時刻表サイトにアクセスして列車をテキトーに選び、こんなメモ書きを作って一か八かパスポートと一緒に長蛇の列の先の窓口に出してみたら、結果的にあっさりと切符は買えたのである。これでかなり中国鉄道の旅の難易度は低くなった。

 

 

上海のホテルは大ブランド街、新世界のイルミネーションパノラマビューのハイアット系のデザインホテルの高層階。

何を目指したのか、やり過ぎな感じのデザイン。

This is THE SHANGHAI.

 

上海はこれといって目的は無かったのだが、知り合いがちょうど上海に来ているというので、一緒にご飯でも食べましょうと言うことでプランに組み入れた。

なにしろ一人ご飯は相当ハードルが高い国である。

ロンドンでよく一人で入ったイタリアンやフレンチ、鮨バーなんて何処にも無い。すべて中華、中華、中華料理である。町中にずらりと並ぶのは、大勢の家族やグループが割れるような声で話しながら山のような料理を平らげている大食堂ばかりである。

それでも中国に来たからには何か美味しいものを絶対食べたいと、何とかご飯相手を確保。二人で勇んで出掛けるはもちろん上海蟹である。

北京で北京ダックは食べ損ねたけど。

季節は外しているのだろうが、日本で食べる、値段ばかり上等で味のしない上海蟹しか知らない身にはぐっとくる濃厚な本場の味。合わせた中国産の白ワインもなかなかだ。

 

北京よりだいぶ南下したせいか、上海は町歩きが楽しくなる気温だ。

町のサイズ感も東京に近い。

 

 

 

今は高層ビルが林立し銀座のようなブランド街に席巻された上海に、それでもどこかコテコテ中国色の北京とは違う欧米の香りが感じられるのは、その昔、イギリス、フランス、アメリカの外国人居留地、租界から発達した街だからだ。

私の上海町歩きはそんな界隈を中心に。

プラタナスやカエデの並木道に、新緑が涼しげな影を映す昼下がり。

 

東京の地下鉄よりはるかに分かり易く、清潔でホームガードも完全整備の地下鉄も、町歩きの大きな味方だ。

 

 

北京ではとんでもない寒さと大きさに負けそうになったけど、ここへ来てかなり旅の勘所が戻ったって感じ。

 

 

どの国へ行くときも、一人で最初にそこへ降り立つ時には、未知の風習や地理や歴史や人々と戦おうとする拳を握りしめる。

しかしいつもその土を踏みしめて歩き、そこの人々と触れ合い、その土地のものを食べているうちに、深呼吸が出来るようになり、肺と心が少しずつ開かれ、また少しずつその国に自分が馴染んでいくのを感じる。

最初異文化の度合いがハンパなく、とんでもないと思ったこの国も、また然りである。

ベッドの中から朝陽をバックにした魔界の今を見る時、中国なかなかいいじゃないかと思っている自分がいる。

 

 

次は杭州へ。