Fujimino、細雪、ドグラ・マグラ

軽井沢には一気に冬が来た。

 

それに比べ、東京の冬の歩みはなんと緩慢なことか。

 

今年のふじみ野の自宅には、特別な冬が来た。

ロンドンにいた去年を除いて毎年ご近所さんと開いてきたクリスマスパーティも、今年で最後となる。

 

 

一人でロンドンにいる時、帰国してからの生活を何度も何度もシュミレーションした。夫の引退が2年後に決まっていたので、その後の人生を何が何でも考えないわけにはいかなかったのだ。

自宅を売ろうという考えは、その時に何だか唐突に浮かんだ。

都内と軽井沢を含めた三ヶ所の居住スペースを維持していく経済力と管理能力が、年金生活となる今後続くとは到底思えなかったからだ。

そして帰国後、すぐに売却の用意にとりかかった。

ロンドンから帰ったばかりのこの弾みを利用しなければ、この大仕事に着手する機会は永遠に失われそうな焦りがあった。

夫は反対もしない代わり、手伝いもしようとはしないので、一人で業者と会い、価格を決め、何人もの購入希望者を内見に受け入れて、買い手が決まっていった。

そう言えば、この家を建てる時も一人だったなと思い出した。

土地を決め、銀行と融資の相談をし、施工業者とデザインを組み立て、コンクリート打設に立ち会い、マテリアルを選び、家具を決め、絵を買い・・・竣工してからの今までの約20年もメンテナンスと手入れに心血を注いできた家だった。

こうやって愛おしんできた家を他人の手に引き渡す感傷はここで言うまい。

コンクリート打ち放しの無機質な鷹揚さは、かつてはその質感と空間の豊かさで自分を虜にしたものだったが、息子達が巣立ち、夫婦二人になり、老境の入り口に立った時、維持する体力に不安を覚えるほどの量感となって自分に迫ってきた。

家という容れ物は、刻々と変わっていく家族の形態を、どこまでどのようにして受け入れ、自らを変容させられるものだろうか。

 

 

船場の若草物語は、大戦直前の不安な時代にありながらもなお、大きな財力の下に、花びらがこぼれ落ちるような美しい日常に明け暮れる四人姉妹の生活を余すところなく描き切った耽美主義の大作である。

「細雪」(谷崎潤一郎/新潮文庫)

四人姉妹の長女鶴子は、婿を取り、両親亡き後の船場の実家を引き継いで、まだ嫁に出ない下二人の妹を世話しつつ華やかな生活を楽しむが、夫の転勤により、本宅を東京に移す。東京の出来合のしもた屋の粗末さ、狭さは、常時彼女や共に住まねばならない未婚の妹達の不満の槍玉に上がる。

かつて四姉妹とその両親を包括してきた豪奢な船場の商家は人手に渡るが、彼女たちの胸には幾度となく、当時の隆盛の象徴のように家の構えへの想いが去来する。

美しいものをこよなく愛した谷崎の迸るような筆致で分量豊かに描かれる、四季の風景に映える着飾った四姉妹。そして開戦時の緊迫もそれぞれの人生の波乱すらも飲み込む、豊穣で優雅な彼女たちの生活の描写は、日本の耽美主義の存在価値を誇示して余りある。

ユイスマンスの「さかしま」を彷彿とさせる、豊穣な物質文化へのオマージュがこの作品にも読み取れる。

いかなる伴侶と結びつくかが当時の職を持たない上流の婦女子全ての人生をかけた命題であり、三女雪子の見合い事情が軸となって進むストーリーの、美しい時代錯誤の中を彷徨い歩きたい作品だ。

 

 

2018年最後の読書会のテーマは、180度転回して、グロテスクな錯乱の世界へ読み手を誘う奇書へ。

このギャップはキツいが、 それも読書生活の一種の醍醐味ではある。

「ドグラ・マグラ」(夢野久作/角川文庫)

精神病理研究者と法医学者の変質的な実験が、自分は誰なのか見失った精神乖離症(らしい)主人公の目で語られるため、読み手は始終正誤を攪乱され続ける。

前半読み手が付き合わされる、無用に難解で狂信的な文献や遺言書の類は単純に著者の嗜好の範囲であろうが、後半、数々の事件の核となる(らしい)教授の解説が始まると一気に推理小説めいて、首謀者や主人公の正体など難解な文脈を読み進む唯一のモチベーションとなってきたものが判明しそうになり、思わず身を乗り出す。

しかし結局は倒錯の世界へ突き放され、独特の結末に辿り着いて呆然とする。奇書か駄書か、判別がつかない。

著者が10年の歳月をかけて推敲に推敲を重ねて後付けをしていったというから、本筋がとうの昔に膨大な思想と文章の奥に隠れてしまい、それを探り当てんとして森に彷徨い混んでいる読者は、二転三転する事実らしきものの認識に翻弄される。

本著の核となる呪いの絵巻物さながらに、読んだ者は精神に異常をきたすという怪著ではある。

 

 

空気が、カーンと乾いて寒さが際立つ。

 

一年ぶりの日本の冬。

この痛いような寒さは、曇天の多いロンドンには無い。

平成最後の、そしてこの家で過ごす最後の年の瀬。

 

 

本年もパチュリをお読みくださいまして、ありがとうございました。

人生第二のステージが幕開ける来年の様子も、また読書と旅行を中心に綴っていきたいと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

Kyoto、金閣寺

「私」はこの南禅寺の庵で、女が若い陸軍士官の捧げ持つ薄茶の茶碗に、振り袖の懐から自ら掴み出した白い乳房の乳を滴らせるのを見る。

それは士官の子を孕んだ女と出征する士官の別れの儀式であったろうし、世の中の醜さを憎み絶望していく「私」に、金閣と並んでたった二つだけ美しいと敬うことを許された現世であった。

しかしその後の「私」の人生に、彼女は残酷な堕落の姿を見せつける。

そして金閣だけが永遠に裏切らない汚れのないものの象徴として「私」の心に残存していく。

 

 

紅葉の京都。

そうだ、京都行こうと急き立てられて、GO WEST。

そういう流れが面倒で遠ざかっていたはずなのに、歳をとるとは不思議なものである。

今回はもうちょっと洛中の懐に飛び込むつもりで、Airbnbで祇園の町家を借りて逗留。オーナーはアメリカ在住の米国人である。町家という京都の伝統美は、もう既に目聡い外国の資本に席巻されてしまった後なのだろうか。

京都にいて日本家屋に滞在するのに、必要なコントラクトやインフォメーションがすべて英語なのは奇妙な感じ。上の階から降ってくる会話も英語だ。

しかしながら東京ではなかなかお目にかかれない古き良き日本家屋の情緒はそのまま。

重ねて、京都の厳しい寒暖や古家の水回りのストレスを現代の機能で完全に払拭した室内環境は、賞賛に値する。

洛中に存在する、枚挙に暇のない数々のクオリティの高いレストランも然り。

 

観光都市としてダントツの進化を遂げ続ける京都は、その歴史的に保存に心血を注いできた建築物が、現代の感覚を表現する一つのツールとなっているところが、日本国内でも独特の文化と人気を有する理由だと思う。

 

 

燃え上がるような壮絶な森の紅葉とはまた違う、古都の紅色を堪能する。

 

 

京都はその歴史的建造物の保存にあたって、常に火事と対峙してきた町でもある。

町を歩くと、一般の家々の前に消火用の赤いバケツが並んでいるのに気付く。

数回に渡る大火を経て、昭和五年の火事でとうとう国宝の四天王像を焼いてしまった、弘法大師の住居東寺には、大きなお堂の前にちょこんと、赤いバケツがまさに焼け石に水的に置いてあって微笑ましい。

サモトラケのニケを連想させる炭になった大きな四天王が四体、お土産ショップの後ろに無造作に陳列されているのも笑えたが、ご住職達にとっては笑い事ではない。講堂に15体の国宝の仏像を持つ同寺では、いざ火事となった時にはご住職が仏像を背負って逃げる練習をしているそうだ。

 

 

知恩院は永享三年に、南禅寺は明徳四年、延暦寺は元亀二年、建仁寺は天文二十一年、三十三間堂は建長元年に焼失した。金閣はまれな偶然によって火を免れたに過ぎない。かつてそれぞれの寺が、自然の火事という不安によって焼かれたのに、今金閣が焼かれないでよい筈があろうか。

 

「金閣を焼かねばならぬ」

 

 

「金閣寺」(三島由紀夫/新潮文庫)

1950年7月2日、国宝・金閣焼失。放火犯は鹿苑寺の青年僧という衝撃のニュースが日本を走った。

31歳の三島の美意識を表現し尽くしたそのニュース・ストーリーは、その真剣のような鋭さが読んでいて時に肌にざくざくと突き刺さって痛い。

三島の感覚の末端細胞としての「私」は、父親が極楽浄土のように美しいと憧れた金閣を持つ鹿苑寺で、吃音という闇を抱えて修行僧となる。彼は偉大である筈の老師や修行仲間を通して、世の中の認識と事実がどちらも非常に醜悪で下等であるという境地に陥って自己を放棄していく。

その彼の価値判断の中に、唯一汚れのない美しさとして存在するのがもの言わぬ金閣であり、堕ちていく認識の中で彼はその存在を醜い現世に残しておく苦痛に見舞われる。あるいは自らの手でそれを消滅させる自己陶酔に陥る。

敗戦体験やその前後の不安定な国情を経た三島の中で、自国の美的伝統は厄介で美しいアンビヴァレンスなものと捕らえられた。彼の滅亡への憧れが行間から立ち上る。

その三島が今の京都を見たら何を思うか。

 

古都と呼ばれるこの町は、実は紙と木で出来た平面を度重なる火事と戦火で次々に喪失させては再建を繰り返してきた新しい町である。今、これだけ美しい古の里として多くの外国人や観光客を集めるのは、その再建のたびにツーリズムを目的として加えた改良と維持のための営業努力の成果に他ならない。

金閣はその最も顕著な例であり、僧侶による放火というセンセーショナルな体験もまた、さらなる観光地としての価値を高めている。

営業努力には古都税に反対した神社仏閣のストライキを例に挙げるまでもなく、金銭の生臭さが付き纏う。

豊満な老師に絶望していく「私」、すなわち三島が嫌悪し滅亡させようとしたのも、美的文化のそんな一面だったかも知れない。

今回の京都滞在で、最後の日に金閣を是非訪れようと思っていたが、不覚にも体調を崩し、叶わなかった。再建後は国宝の認定も無く、剥き出しに金箔を張ったその建物は、青年僧が思い詰めたほどに今も人を感動させるものだろうか。

 

また京都に行く理由が出来た。

そう思うことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

Ueda、無言館ノオト

「彼との子どもは、もみじって名前にする」

高校生の発言にしては随分不適切な、当時てるやま君と付き合ってた同級生のことを、ふと思い出す。

 

信州の秋。

その中でも特別に早く、木々が真っ赤に燃え上がるのが高地軽井沢だ。

その二週間、ここはまるで壮大な錦絵のような風景が広がった。

 

新緑の軽井沢も素敵だけど、この目の奥まで真っ赤になりそうな鮮やかな森も素晴らしい。

 

夏を過ぎて一時静けさが戻った界隈が、再び観光客で溢れ返る。

山荘にも千客万来。

湿度を含んだ冷気によって急速解凍されたような、鮮明色の真紅を楽しんでいただく。

 

ワイン通の友人が来れば、浅間山の麓を回り込んで小布施ワイナリーまで。

信濃の平地はそれでもまだ紅葉の最盛まであと一週間といったところか。

 

窓の外の錦絵巻を眺めながら山荘を整理する中で、母がここで描いたスケッチブックを見つけた。

こってりとした油彩ではなく、あくまで水彩の透明さ、繊細さをを好んだ母は、旅行には必ず愛用のスケッチブックと私が贈ったコンパクトな絵の具箱を持ち歩き、折々の風景を好みのF1サイズに凝縮して写し取っていた。主張しない、優しいタッチと色彩は、彼女の控えめな性格そのものであったように思う。

その元々幽かな描線がさらに薄くなるように、90歳を超えた母の記憶と認知能力は徐々に、徐々に掠れていった。

見つかったスケッチブックは、その頃のものである。

その頃はもはや水彩絵の具の扱いが出来なくなっており、代わりにクレヨンで描いた簡単な絵が、数冊ののスケッチブックにまばらに2〜3枚ずつ、途切れ途切れの記憶をそのまま物語るように残されている。

茨城の田舎から東京女子師範学校(現御茶ノ水女子大学)に進んで数学を得意とした彼女が、生涯を通して絵を愛した理由。

その描線の基点がここにあるのかも知れない。

来荘客の途切れた一日に、上田へ一人車を走らせた。

 

上田の戦没画学生慰霊美術館無言館には、母が亡くなって3年ほど経った頃に一度訪れたことがある。

大戦末期、敗色濃い情勢の中で、ついに絵筆を捨てて戦地へ召集されて散っていった当時の画学生の遺作を、館主の窪島氏が、やはり召集されながら生還を果たした画家野見山暁治氏と共に、遺族の家を丹念に巡って集めた私設美術館である。

生前軽井沢の山荘に来ると、母はここにしきりに行きたがった。父はそのことで大学生の頃の母のロマンスを勝手にでっち上げて疑心暗鬼になり、不機嫌だった。

母を支配し続けた父の妄想であるかも知れない、戦争という極限状態の中に青春を飲み込まれた母と画学生の恋。しかし万事父に逆らうことを許されなかった母にだって、心を引きちぎられるような瞬間があったと私は思いたい。母はそのことに対して何も言わなかったけれど、だからこそ仕事の傍ら絵筆を常に離さなかったのではなかろうか、と。

 

 

 

軽井沢で参加している読書会で貸し出している本の中で見つけた、館主の窪島氏の著書が、今回のドライブのお供だ。

「無言館ノオト 〜戦没画学生へのレクイエム〜」(窪島誠一郎/集英社新書)

館主窪島氏の無言館設立への道のり。

意外なのは、夭折の画学生達への愛慕の念と情熱で創立されたと思われたこの小さな美術館は、窪島氏の自己の行動が偽善ではないかという自虐と、野見山氏の生還してしまった自分への後ろめたさという負のコンクリートで固められているという点だ。

時に、自分を否定し卑下する感情は、反動として並外れたパワーを生み出すのだろうか。淡々と語られる遺作収集と遺族との出会いの旅の過程は、二人の心に横たわる自己の存在への哀しみがにじみ出る。

遺族が所有していた夭折の画学生達の作品のコンディションはほとんどが朽ちる一歩手前のようなものが多く、著者はここで救い出さなければ文字通り絵も、画学生達が生きたという事実も風化してしまうという焦燥にただ衝き動かされて収集と所蔵を願い出て歩いたという。美術館を作る発想は、そのもっと後のことだ。趣旨を見聞きした多くの一般の人達の寄付によって、図らずも、美術館という形になったのだという。

 

石棺を思わせるコンクリート打ち放しの十字架状の美術館に並ぶ絵の中には、散りゆく運命を目前に描かれた愛おしい女性の肖像が目立つ。

ここへ来ると私は、その中に母に似た人を無意識のうちに探す。

きっといるのだ、と思う。

合わせて、野見山暁治「四百字のデッサン」(河出文庫)も読みたい。

 

 

 

 

 

Tokyo、恋ほおずき

秋が頑固な暑さを押し退けて、すとんとやってきた。

小春日和。

 

季節が動き、東京が動く。

数寄屋橋交差点のソニービルが消え、レンゾ・ピアノのガラスキューブが剥き出しになる。

20年来見たことのない東京。

学生の頃眺めたのとは違う形の空。

 

様々な会食が大切な人達と続く。

人形町の松茸すき焼きは、夫との恒例季節イベント。食べれば必ず体重が1キロ増える禁断の食べ物だが、年に一度、この時期だけの楽しみと腹をくくって食べる。

界隈は、変わりゆく銀座とは対照的に、小伝馬町、八丁堀、日本橋など江戸の名残の町名とどこか時代劇映画のセットのような町並みが続く。

しばらく京都に入れ込んでいたが、その日はセピア色の東京を、松茸の香りと共に堪能する。

 

時は遡って江戸時代、老中水野越前守忠邦が子堕ろしを行う女医を取り締まるよう沙汰を出そうとしたその時に、この界隈に江与という中條流(堕胎を専門とする女医)がいたという影を追う。

「恋ほおずき」(諸田玲子/中公文庫)

避妊具など思いもよらない時代、春をひさぐ女達は当然の結果として起こる望まない妊娠を、この中條流を頼って堕胎処置をしてはまた働き続けた。題名は、ほおずきの根が激しい子宮筋収縮を起こすとして、この堕胎に用いられた唯一の、あまりにも乱暴な処置薬だったことからである。

一方、生まれ出ようとする命を無理矢理流す医術はけしからんという理屈のみでこの職を廃止させようとする幕府。中には家臣と手を組んでお局や高位の女性から処置代をむしり取るあくどい中條流もおり、次々と近隣の女医が廃業を迫られる中、遊女や武士からの力ずくの暴力により妊娠を余儀なくされた女性達の最後の蜘蛛の糸として存在し続けようとする江与が、涙さえ流すことを許されず、自身の身の危険を引き受けなければならない女達の味方となって、親しい岡っ引きや長屋の洟垂れ坊主と共に、様々な事件の狭間を奔走する。

婚姻の叶わぬ相手に心を寄せて自らは妻となることを諦めた、凛として聡明な江与の、ミス・マープル並みの賢い事件解明と、つい先だってまで読み込んでいた京ことばとは打って変わった江戸の会話が、読んでいて歯切れがよい。

しかし心をかき乱されて仕方ないのは、つい200年前まで、日本に避妊という常識が無く、堕胎に関してこんな原始的な方法しか持たなかったのかという事実、そしてそのツケは女性が一方的に負わなければならなかったという、あまりにも不均衡な現実である。

避妊法は、いつ、どうやって世に登場したのか。日本に伝わった経緯は。

それを知りたくなって、次の本に読み進む。

「コンドームの歴史」(アーニエ・コリア著/藤田真利子訳/河出書房)

驚くなかれ、すでに古代エジプト時代にはコンドームの原形はあったというから、近代西洋社会が、妊娠の原因を科学的に証明するのに大層な時間を費やしたことを思えば、古代人はかなり妊娠の予防については的をついた考えを持っていたと言える。

では日本への避妊具の伝達はいつか。それがありさえすれば、江戸の遊女達も救われたのではないか。

著者がアメリカ人であるためか多少のジャポニズム傾倒があるとしても少し出来過ぎなのは、日本では八世紀に神官が折り紙のコンドームを作ったという記述だ。実際に実用的な避妊具は、15世紀末に西欧からの梅毒の流行と共にヨーロッパスタイルのコンドームも海を越えてやってきたというのが正解なようだ。

15世紀末というと室町時代。もちろん「恋ほおずき」は著者の創作であり、史実に則っているかどうかはわからない。江戸庶民の隅々にまでは、私が絶望したように、避妊の考えが行き渡っていなかったのだろうか。それともコンドームは病気予防としてもたらされてはいても、男性の圧倒的優位のこの時代に避妊具としてそれを用いる考えが無かったのだろうか。

これはもう私の想像でしかない。

避妊の歴史は一番ストレートな女性の地位向上の歩みでもある。

 

母体保護法の制定が昭和23年。

(ブログを読んだ夫から、昭和23年制定の優生保護法が平成8年に母体保護法と改名されたと指摘有り。「優生保護」という言葉が不適切とみなされたとのこと)

夫達産婦人科医は、身籠った母体が危険に晒されないよう定められたその法律の下に、望まない妊娠も含め措置を行う。

あの時代に江与はまさにこの法律の基を身を張って実行しようとしたのだと、町並みの明かりが彼女の心を照らしているように思えた。

 

飽食に一旦休止符を打ち、お江戸を後にして信州へ。

軽井沢は、燃えるような紅葉だ。

 

 

 

 

 

Kyoto、京都、オトナの修学旅行

行ってみればこんなに美しいのに、どうして京都を人生から遠ざけていたのか、自分でもずっと分からないままであった。

アンノン族(死語)の究極の聖地。そのミーハーなイメージに支配され、手垢にまみれた感を嫌ったか。

金閣(金閣’寺’ではありません、と看板が立ってるらしい)は義満、銀閣は義政、二条城は大政奉還と暗記されられて、長蛇の列の後ろから興味のない建造物を見なければならなかった修学旅行のトラウマか。

「そうだ、京都行こう」に誘われて押し寄せる群衆の一員になりたくないという偏屈極まりないプライドか。

 

10年ぶりに、ただ桂離宮が観たいと云う理由と、夫加療のため数ヶ月大好きな海外に出られなかった穴埋めにふらりと出掛けてみたら、何だか我が邪なハートに京都はズキンと突き刺さってきた。

なぜ?

答えを探して、ありとあらゆる京都関連本を読み漁る。

 

 

川端の二作は、ストーリー云々よりも彼の眼をフィルターにした京都案内のようである。

「古都」(川端康成/新潮文庫) 「美しさと哀しみと」(川端康成/中公文庫)

 

川端の眼を通す京都は、色っぽい。そしてやはり京都人ではないがゆえの彼の憧れが詰まっているように感じられる。「美しい日本の私」を読むと川端の日本文化への造詣の深さが伺えるが、そんな筆者にとって京都は聖地でもあったのだろう。

特に京都そのものを舞台とする「古都」は、遷ろう男女の道行きの背景として存在する、名前だけは聞いたことのある神社仏閣とその界隈が散りばめられて、まるで川端版京都町歩きガイドである。今読むと純愛すぎてストレート過ぎてやや小っ恥ずかしくなりそうな色彩は、「ふたりのロッテ」を彷彿とさせるストーリーを淡く包んでいる。

睡眠薬に溺れて一度は中断を余儀なくされ、のちの自裁に導かれていく時期に著されたとは思えない、澄み切った小説である。

 

 

再び。

なぜこれまで京都から遠ざかっていたのだろうか。

そこにずばっと直球を投げて答えてくれたのが、「京都、オトナの修学旅行」(山下裕二・赤瀬川原平/ちくま文庫)である。

山下、赤瀬川共に執筆当時の2001年、40代中年と60代初老(今の自分と同じ年。初老と呼ばれる年なのか。。。。)。そして文化、美術には一言も二言もあるエキスパートにして、大の皮肉屋。二人の斜め目線の京都評が面白くないわけがない。

当時、今の私とほぼ同い年の赤瀬川がまえがきで言う。

とにかく京都修学旅行は、ぜったいにオトナになってからがお勧めである。

 

なぜなら、

日本人が日本の古典を見るには、西洋人が西洋の古典を振り返るのとは違う難しさがあるのである。これは明治以降、とりわけ大戦後の日本文化の激変の中にいるものとして致し方ない。

いずれにしろ日本美術を見るには、オトナであることが必要だと思う。知識が必要ということではない。物に対する感覚的な経験がどうしても必要なのである。

このまえがきを読んだ途端、「そうですよね?ね?ね?」と、昔住んだマンションの近くにニラハウスという奇妙な住居を構えていたこの前衛芸術家に、途方もない共感を覚えてしまったのである。

中学校の修学旅行で初めて訪れた京都。それは何の感動も私に残さなかった。二条城の真新しさが、ただただ違和感として残ったのを覚えている。

「京都に古いものは何も無い」という本著の一文が突き刺さった。

揶揄半分で、「京都人が云う ’さきの大戦’ とは応仁の乱」というのもあながちウケ狙いではない。度重なる戦いや火事でほとんどの建造物が消失し再建されて、今の観光都市京都がある。放火により消失した金閣などはほんの数十年前の建造物である。紙と木で出来た碁盤の目の平面の都は、常に火事と闘ってきたのだ。なのに、教科書の日本史と絡めて修学旅行を実施するから、我々は(・・というか私だけなのかも知れないけれども)混乱する。尊氏が、家康が目の前にある物を精魂込めて建立したと。

狩野派はゼネコンである、というような破天荒な視点と共に、全くの素人に京都とはなんたるかを”非”京都愛好家として、でも愛情を持って語ってくれた初めてのベクトルではないか。(最近では井上氏の「京都ぎらい」がベストセラーを獲得しているけれども)

京都は嫌いでいいのだ。

でも何か心に触れるトシになったら、そうだ、京都行こう。

そんなことを思わせてくれる一冊だった。

 

 

 

今回訪れた京都では京都通の友人を介し、パリのようなアンティークショップや洗練された食にも出会うことが出来た。京都の食文化の美しさには目を見張るばかりである。

修学旅行生とは別世界の京都が絶対ある。

 

さあ、還暦過ぎてからのディスカヴァー・ジャパン。

迷走必至である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Katsura-rikyu、陰翳礼讃

気が付いたら京都に来ていた。

 

読書会の今月のテーマの「美しい日本の私」から谷崎の「陰翳礼讃」に流れて、無性にこの古都に向かいたくなった。

「陰翳礼讃」(谷崎潤一郎/中公文庫)

両親が住んだ家と土地の始末が叶い、最後に取り壊される古家の父の本棚から持ち出した数冊の中に、角が擦り切れた桂離宮の写真集があった。父が、あるいは母が、どんなに熱心にこの写真集を眺めたのだろうと、愛おしかった。

夏の終わりがけ、自分の現役引退を目前にして、この日本で一番美しいウィークエンドハウスを初めて観に行くことにした。

 

京都は何十年か前の修学旅行以来、職員旅行や夫の学会同行などでお仕着せの道行きはあったけれど、大勢の観光客にまみれるばかりで、ついぞ熱心な興味を引かれることは無かった。しかし今回、初めて自分の手と足で情報収集して歩き回れば、そこはかとなくパリに似た繊細な文化を醸し出す町の表情の虜になる。

たまに無粋なコンクリートビルに邪魔されはしても、町自体がうっすらとアンティークなヴェールに覆われているのが単純に美しいし、方向性が完全に一致して成り立っているところが、私のような無学の者でも、初めて来た外国人にでも分かりやすいのだろうと思う。

建物の高さが制限されて、鴨川原を中心にして町の中心地の空が広く開けているのも呼吸を平らかにさせ、セーヌ川を抱くパリを思わせる。

 

 

急に思い立ったのでインターネット予約が間に合わず、事情を察した京都在住の友人が御所まで出向いて取ってくれたある意味プラチナチケット(無料)で拝観した桂離宮は、まさに「陰翳礼讃」のワンフレーズ、ワンフレーズの視覚化であった。

ドイツの建築家ブルーノ・タウトをして、「泣きたくなるほど美しい」と嘆賞させたこの元八条宮家の山荘は、市の西郊、桂川畔にある。豊臣秀吉の養子に迎えられたため(後に秀吉に実子が生まれたため解消)徳川家の忌避に遭い、歴史の表舞台に立つことなく数奇な生涯を終えた八条宮家智仁親王が、古典文学への研鑽を積んだ当代屈指の文化人としての美意識と教養を駆使して作り上げた別荘で、邸内に3つの端正な書院と4つの美しい茶屋を有する。

邸内だけでも約6万平方メートルという敷地の中に、これらの瀟洒な建造物が絶妙な視覚的センスを持って配置されているのを見るだけで感動するが、さらに眼を奪われるのは、建物、庭園を織りなす一つ一つのディティールの、比類の無い凝りようである。

 

この市松模様、リズミカルでなんとモダンなことか。

 

 

 

左様にわれわれが住居を営むには、何よりも屋根と云う傘を拡げて大地に一郭の日かげを落とし、その薄暗い陰翳の中に家造りをする。

 

 

 

そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。

 

 

 

われわれは、この力のない、わびしい、果敢ない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。

 

 

 

 

もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。

 

 

 

谷崎は、白々とした西洋を真似た光線が日本の文化の中に入り込んだ醜さを徹底して嫌っている。

日本の文化の中に常に存在している影というものは、それが暗い部屋に住むことを余儀なくされた歴史的生活環境から生まれたものだとしても、われわれの祖先はいつしか陰翳の中に美を発見し、やがては美の目的のために陰翳を利用するようになったのだという谷崎の眼は、普段本格的な日本家屋など見る機会の少なくなった現代では、この桂離宮を見ると心に染み入るようである。

その陰翳の文化の源流を、日本人独特の肌の色や屋敷のディティールに反映させて解釈した本著は、建築を目指す者のみならず、谷崎をして”間違った方向に進化してしまった文明”をもてはやし、結果、混沌とし、雑然とした風景を作り出してしまったわれわれ現代人全てが、もう一度二度手に取るべき名著だと思う。

 

 

大学生の頃訳も分からず読み捨てていた本著を、恥ずかしながら、今さらながら、京都行きを前に読み直し、その本質に僅かながら触れることが出来たことを幸せに思う。

外国にばかり眼を向けて飛び出していたこれまでを後悔はしないが、日本の文化への理解無くしてする危うさと浅はかさ。自分の足元にそれがあるし、高度成長を急ぐあまり日本古来の美しさへの尊敬を置き忘れた現代社会にも残念さは残る。

 

早くから文人達が危惧してきた日本の美の喪失を、遅ればせながら一つ一つ拾い上げていきたいと思うようになったのは、やはり歳をとったということだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Mito、青い眼がほしい

石名坂の上から、なだらかに海に向かって斜めに下りる細い道をゆるゆる下る時に、ふいに実家を見ても湧かなかった熱いものがせり上がってきたのは自分でも意外だった。

 

 

二人が施設に入居してから約10年間、空き家になっていた両親の家を遂に手放すことになり、その手続きのために故郷を訪れた時、ふと空いた時間に訪れようと思いたったのは、父が人生の大半を捧げたミッションスクールだった。

母が厳密に勤務体制が定められた公立高校の教師だったのに対し、父がいたミッションスクールは新しく自由な雰囲気で、働く女性のための保育体制が整わなかったその時代に母が不在となる時は、父はまだろくに歩けもしない頃から私を学校に連れて行き、自分のデスクの脇で遊ばせたり、宣教師達の家に預けたり、時にはがらんとした図書館に野放しにしたりした。

隣のゴルフ場と地続きの用地は、松林と広大な芝生が美しい緩やかな海側へのダウンヒルで、父の居る木造の事務棟から宣教師達のフィフティーズ住宅まで、幼すぎる私の足では、歩いても歩いても到着しなかった。疲れて途中の芝生に寝転がれば、頬の脇にタンポポが揺れていた。連れられてご飯を食べた学食は、米軍払い下げのかまぼこ兵舎だった。

 

考えてみたら小学校入学から高校卒業までたった12年しか住まなかった実家より、私は父に連れられてずいぶん長い間この学校に通ったのだ。その思い出の量が、手放す実家への思いを超えていたということなんだろう。

生徒数が増え規模が大きくなるにつれて、父はひとつひとつ注意深くこだわりを持って校舎を建設してきたが、その学校も今は、統一感の無い沢山の建物が葬り去られた芝生の代わりに節操無く立ち並んでいる。父の志はもう何処にも無い。

父が学校を去って35年。

それでも私はそこに父を見たような気がした。

 

 

父が一緒に仕事をしてきたアメリカの宣教師達は、どこからどうやって日本に、しかもこの茨城の片田舎にやってきたのか、その経緯を私は知らない。

この地に彼らが小さな学校を創立したのは1948年のことだ。

その7年前の1941年、ピコーラは自分の父親の子どもを宿し、その年、オハイオでマリゴールドの花は開かなかった。

「青い眼がほしい」(トニ・モリスン/大社淑子訳/早川書房)

 

アフリカン・アメリカン女性初のノーベル賞作家、トニ・モリスンのデビュー作。

アメリカの黒人作家の文学と聞いて先ず思い浮かぶ激しい抵抗の情熱とは裏腹に、読むうちに満ちてくるのは静かでどうしようもないやるせなさである。

貧困、無教養。暴力、犯罪、近親相姦、異常性愛。

何が原因で何が結果なのか、それすらも分からない掃き溜めのようなカオスの中の同胞のスパイラルを、著者は美しい言い回しで一皮、一皮剥がして露にしていく。単一民族国家のアジア人には最も感覚が鈍る部分、そのスパイラルの中に一度でも身を置いたことが無ければ描けない感覚だ。

その暗闇を、なぜ、と考えた時に、もし、こういう生まれでなかったら、という仮定に説明させるために、ストーリーと登場人物の生い立ちが交互に語られていく。そのため、筋書きは追いにくい。しかもそこに答えは出ない。もしこういう生い立ちでなければ、こういう親を持たなかったら、こういう環境を抜けだせていたなら、という仮定は何の役にも立たない。なぜなら、白人社会が正当だと思っている価値観は、彼らにとって望むべくも無いものだから。

彼らが切に望むのは、外見の醜さを消すことである。彼らは自分たちは醜いというどうしようもない劣等感をもって、自らを白人社会から疎外しているのだという著者の視点は、ひりひりとした出口の無い痛みを誘う。

友達から攻撃され、母親から見捨てられ、父親には陵辱されるピコーラが望むものは、たったひとつ、青い美しい眼がほしいということだけ。彼女が人として生きる価値判断を養う土壌の脆弱さがもの悲しい。

この子に、何を言ってやれるのだろう。

読み終わった後には、ただ重い無力感が残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Karuizawa、新薬の狩人たち

慣れない静養生活を数週間軽井沢で送って、夫は二度目のメスを身体に入れるために入院生活に戻った。

軽井沢で、夫と毎日10キロ近く散歩するカントは、急にいなくなったハンドラーに起こっていることを敏感に察知しているようにも思える。

酷暑が続いたこの夏、エアコンの無い生活が出来る森の中の家は千客万来で楽しかったが、私たちは厳しい現実に向き合うために里へ下りた。

 

 

消去法的必然文系人間は滅多に科学系本に手を出さないのだが、軽井沢滞在中にえいやっと読んでみた薬理の世界は、文学を超えるかも知れないロマンに満ち満ちていて、すっかり夢中になってしまった。

「新薬の狩人たち 〜成功率0.1%の探求〜」(ドナルド・R・キルシュ/オギ・オーガス/寺町朋子訳/早川書房)

新薬ビジネスはとりわけ巨額マネーばかりが取沙汰されるが、その製薬会社が喉から手が出るほど欲しい製薬のセオリーと技術は、多くはほとんど偶然に近いような確率でしか生まれないし、時には本当に偶然であったりする。そしてそれを突き止める研究者たちは、多くは金にはたいして興味の無い偏屈な化学オタクだったりする。

例えば歴史上最も売れてきたバイエル社のブランド薬アスピリンは、それまで何百年もの間、それこそ漢方やアロマテラピーのような科学的根拠が明確でない自然発生的成分で症状の緩和に寄与してきた古代薬理の世界に、1830年代に誕生した合成化学によって人間が”設計”した画期的な特効薬として華々しく登場した。近代薬理の発進である。

そのアスピリンが、開発に出資したバイエル社の巧妙な仕掛けによって、特許が切れた現代でも売れ続けるベストセラー薬に仕立てられていること、発明に最も寄与した化学者がナチスへの忖度によって浮かび上がれなかったことなど、アスピリン一つをとっても、まるで映画のようなドラマの枚挙に事欠かない。

こうして既存の自然発生薬の合成をいじりながら麻酔薬や症状緩和薬がまず登場した後、世界初の”治療薬”が誕生することになる。

サルバルサンは、製薬業界より合成化学という面では一歩先を走っていた染料の成分が、特定の”受容体”にのみ反応して発色するという仕組みに着目したドイツ人科学者エールリヒが、スピロヘータ科梅毒菌のみに着弾し破壊するヒ素の”弾頭付き”染料を開発、これが薬の歴史上だけではなく、まさに人類の歴史上でも特別な瞬間となった。このあたりは、もうスパイ映画のくだりのようである。

その後、製薬界はこの合成化学時代を経てバイオ医薬品時代に突入し、ある意味自由に成分を生み出し、組み合わせて薬剤を作れるようになったが、それは常に副作用というお荷物や危険、ビジネスを巡る金、または人体の謎などとの闘いをも生み出した。現代製薬界の最も大きな問題は耐性菌の出現であろう。

創薬の難しさ、サブタイトルの0.1%は、ドラッグハンターが提案した創薬プロジェクトのうち経営陣から資金を提供される確率が5%、その中で新薬発売に漕ぎ着けるのは2%という事実由来の数値である。

それでも果敢な挑戦を続けてきた古今の非凡な新薬の狩人、ドラッグハンターがいたからこそ、今我々はその恩恵を受け、命を救われたり苦痛を和らげられたりしている。

本著は出来るだけ専門的、難解な語彙を避け、流暢な抑揚を込めた文章で淀みなく綴られており、自分のような科学と化学の区別も満足に出来ない文系人間にも、製薬の歴史の壮絶、壮大なスペクタクルを分かりやすく読ませてくれる。

折しも夫が二回も(!)続けて手術を受けるという現場に居合わせる時期と重なったため、集中治療室で術後の痛みに耐える夫の身体に吸い込まれていく点滴やトレイに並べられた注射の数々、配布される錠剤などをまじまじと見てしまった。

手術がこの現代の最新医療の中であってよかったと夫には言いたいし(医者本人に言っても馬耳東風だろう)、術後順調に彼が回復に向かっていることを報告して、簡単に製薬ヒストリーのレビューを終えよう。

 

 

 

 

 

Karuizawa、アンナ・カレーニナ

夫の退院とともに、連日40℃近い灼熱地獄の関東から山を越えて、山荘に避難してきた。

 

温暖化とはいえ、都会の今年の暑さは狂気だ。

24時間エアコン漬けのなんともけだるい街の生活に、しばし別れを告げる。

 

 

昔は滅多に30℃を超える日が無かった軽井沢も、最近は31、2℃の日が珍しくなくなった。それでも森の中は緑の風が渡り、体感的にかなり低いように思う。

 

 

 

山荘にあるのは、涼風と有り余る時間だ。

本格的な避暑・観光シーズンを前にして、平日の町中は人気が無い。都会から移り住むに当っては、まずこのまばらな人口密度に慣れていかなくてはならない。

何十年も住んできた場所とは全く違った、新しいソサエティに分け入っていく覚悟も必要だ。来年から始まるリタイア生活の予習のようなものだが、夫はまだそこを持て余している。

ここでどう生きていくのか。

幸いこの町にはその先達が大勢いる。

現役時代に東京で活躍した多くの文化人がリタイアして住まい、町創立の歴史から欧米居住者も多い軽井沢は、一地方の町としてはかなり特別な雰囲気を持つ町だと思う。

望めば東京並みの食事も叶うし、特にジャズなどはクオリティの高いアマチュアセッションにあちこちで出会える。

 

そんな中に少しずつ稼働領域を広げ中。

 

 

森の中では圧倒的に本を読んで過ごす時間が多い。

 

 

文庫本3冊に渡る壮大なロシア文学の読了に取りかかる。

アンナの生き方を否定しない。

帝政ロシア、その知の巨人の視線の角度。

「アンナ・カレーニナ」(トルストイ/木村浩訳/新潮文庫)

 

ストーリーは、トルストイの出自そのものの19世紀ロシアの貴族社会を背景に、美貌の人妻アンナと、農場経営と教育に情熱を傾ける伯爵リョーヴィンの全く対照的な二つの結婚生活を、縦横に巡らした貴族間の婚姻関係で自然に関連づけて展開していく。

何一つ不自由の無い婚姻をしながらも、自己の愛に忠実であろうとするが故に破滅していくアンナに、人生の教師として思想界に名高いトルストイは己の理想の女性像を与え、その生き方に批判の目を投影していないように見える。しかし道を誤った女を罰するのは、社会や夫ではなく、苦しみ、後に非業の死に至る人生を背負わせる大きな存在であろうという、宗教に基づく彼なりの解釈もまた成り立つように思う。

一方、広大な農地を所有し、都会の上流社会とは距離をおいて自己の理想郷を確立しようと努力するリョーヴィンは、まぎれも無くトルストイ自身の化身であり、彼の口を借り、現代文明への鋭い批判と指南を本著において表明している点で、この小説がありきたりのロマン小説ではなく、社会的なステイタスを持った重々しい名作として世に評価されることとなったと理解する。

 

 

世に言う名作は、絶えず私たちの目に触れるところにありながら、そして若い時に読むべきだと言われながら、私の場合はいつも目先の新しい、その時の興味の赴くままの選書になってしまい、特に読破に時間のかかる長編は迂回してしまいがちだったことを反省している。

社会の第一線を退いた後に横たわる長い時間は、今までと違う生き方を模索する時間であると共に、こういった読み残してきた大作を一つ一つ味わっていく、熟成の期間でもあると思う。

今、その時が来たことを幸せに思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Moroyama、@ガン病棟

孫娘の初めてのピアノ発表会を夫と楽しんでの帰り道は、ロンドンでよく見た輝く薔薇色の空であった。

その色を愛おしげに脳裏にインプットして、夫は最初の軟骨肉腫切除手術のために、埼玉の奥地にある国際医療センターに入院した。

今、日本全土を覆う殺人的な猛暑のちょうど始まりの日、西日本を豪雨が襲ったその日だったように思う。

医療センターのメインエントランスは真西に大きな開口部を設け、影が全く無いだだっ広いアプローチは堪え難い西日を直接照り返させ、それが弱った患者や心痛を抱えた見舞客の気力と体力を奪った。

それぞれに皆忙しい家族故、入院も手術も一人で立ち会うつもりでいたが、ベトナム在住の次男が仕事の予定を合わせて帰国し、両日付き添ってくれた。

院内のスターバックスに設けられた七夕飾りは、健康な人々の毎日がどんなに贅沢なことかを言外に語る、独特の小さく光る星々であった。

 

 

今回夫のがんを知った人達の多くが、もう来年は私が未亡人になるかのような視線を投げかけるのであったが、それはそれで置いておくことにした。実際に患者を家族に抱えた身には、エモーショナルな同情はただ気が重く、実際に一つずつの検査や治療を粛々と進めていく無機質な前進だけが、出口の光に向かう唯一の手段であることは明白だった。

 

 

自覚症状も無いままに、まさに偶然のように発見された初期の腫瘍で転移が認められず、術後の放射線治療も可能性は低いとのことだったので、2週間に渡る夫の入院生活は、皆さんの心配を他所に、本が20冊くらい読めるいい休暇みたいだった。(しかし彼は一冊も読まなかった)

私も食事をバンバン差し入れたので、病院の食事もそれほど堪えなかったようだ。

 

いつもクリニックで夫の身体をケアしてくれるアロマセラピストが出張して足浴と角質除去をしてくれ、これはもうスパ付き休養という贅沢さであった。

 

最初は毎日家族親族に様子を伝える必要で始めた定点観測も、日々の回復度合いが見てとれるものとなった。

 

 

退院の日。

 

日本人の二人に一人はがんだという時代である。

医療と技術が発達し、医学で治らない病気が少なくなり、でもがんはそこに最後に残っている。

子どもや若い人のがんは辛い。

しかし夫自身も常日頃言っているように、私たちの世代のがんがほぼ細胞の老化であることを考えると、少し早いか遅いかの差はあるにせよ、それは自然の病態として静かに受け入れたい。社会の責任を果たし終えた後の第二の自由な人生の中にあるがんは、誰にも迷惑をかけない。今回夫は早い段階の発見だったので切除に踏み切ったが、責任を果たし終えた後に、幾分か長く生きることはそれほど必要なことだろうかと思う。

私は55才から一切のがん検診を受けていない。

生き長らえることに執着しなくなると、がんの受け止め方も自ずから変わってくるものだ。

 

ガン病棟は、明るく静かで祈りに満ちている。

夫に付き添い、何度も何度もここに通いながら、私はがんになった片方を労りながら沢山の老夫婦が寄り添う姿を見た。

そこには長い人生を一緒に生き、ここでがんという不幸に見舞われはしたが、夫婦二人の歴史の中で静かにその出来事を咀嚼している穏やかな強さがあり、見ていてなぜかほっとした。

 

夫は来月、また検査の過程で偶然見つかった腎細胞癌の切除手術に臨む。

ちょうど長男に医療法人を移譲する手続きを進める中での今回の発病は、自分が主役であった人生の隆盛期に別れを告げる、一つのステップなのだと考えたい。

発病、その後の入院にあたり、ご尽力、ご心配頂きました皆様に、心からお礼申し上げます。

もう少し治療は続きますが、入院中も院内を毎日1万歩歩いて(別な病棟に入れられるかと心配した)体力増強に努めた本人が何より非常に前向きに取り組んでいるので、どうぞご安心ください。

きっと彼は完治させるだろうと確信しています。